3.Aメロ ー朱里
「朱里、どうしよう。やっばいんだけど。」
「うん…」
「テンション爆上がりなんだけど。」
「え、そっち?」
キャパ400人と聞いていたその会場は、前日に仕込まれた照明に包まれて燦然としていた。威圧感が半端ない。センターでマイクを握り、幾筋もの光を受けて立っているのは真人先輩だ。逆リハというものをしていた。先輩たちのバンドがラストだから、リハは最初にするということらしい。とはいえ、そもそも先輩たちのバンドLaid-backがメインで、他のバンドはおまけのようなものだ。仲間の音楽を多くの人に聞いてほしいという先輩の心遣いなのだろう。
「真人、さわりだけちょうだい。」
「オッケー。」
蒼いサスペンションライトが真人先輩のマイクスタンドにあたると、すっと静寂に包まれた。ヴォーカルの呼吸とともに鳴り出した音は、鼓動のリズムを奪われるほど体中に響いた。
「オッケーです。そしたら交代ね。」
私たちを見つけた真人先輩がステージから降りてきた。いつもとは全く違う、アーティストの顔をした先輩。オーラって本当にあるんだ。出したり消したりできるものなのだろうか。チャラい感じでふわふわとした不思議君のような先輩と同一人物なのか疑いたくなるほど別人だった。
「来てたんだ。入り時間よりだいぶ早いよね。…あれ、緊張しちゃってる?大丈夫だよ。みんなこうして場数ふんでいくんだし。ステージに立ってしまえば照明のせいで客席なんて真っ暗だよ。」
「こんな本格的なライブだなんて… おもしろすぎるんだけど!」
「どんな心臓してんのよ、スミカ」
「次のリハが始まるから、とりあえず楽屋行こうか。」
客席の照明が消え、音出しが始まった。会場の後部にある扉へ向かうと、機械の前でマイクに向かっている翔先輩がいた。飲み会以来だった。何度も連絡しようと思ったけれど、迷惑だろうと送信できなかった。それにライブで会えるから。
楽屋入りしてから、いろんな人にあいさつをした。出演者、スタッフ、真人先輩の事務所の人、音楽関係者。ド素人がいるべきではないような場を、実緒とスミカは楽しんでいた。私は二人の一歩後ろで意識が飛びそうなくらい緊張していた。
「朱里、また顔色よくないよ。」
「だって、あんなステージを目の当たりにしたら、誰だって緊張するでしょう。」
「緊張したってしょうがないじゃん。それに真人先輩も一緒だし、ほら、翔先輩だっているじゃん。」
「どういう理屈よ…。」
「言い返す気力があるなら心配なし!よし、行こう!」
ステージに向かい、各々がセッティングを始めた。ハイハットとキックペダルの位置を調整して、スネアドラムの傾斜と高さを合わせる。全てに自分の手足がきちんと届くように。そして最後にインイヤーモニターというものを装着した。
「さて、準備はできたかな?三人官女さん。」
翔先輩の声だった。実緒とスミカが振り向き、私のゴーサインを待っていた。深呼吸をして頷いた。いつもどおりに演奏すればいいと必死に言い聞かせた。ライブがはじめての私たちのために全ナンバーを通しで演奏させてくれた。1曲目は照明で手元が見えないことに焦りボロボロけれど、2曲目からは前にいる二人を眺める余裕ができた。なにより真人先輩が視界にいることで安心感があった。
無事にリハを終え、客入れ時間となり、本番まで30分となった。上手で楽譜のチェックをしたり、練習をしたり、スミカに至ってはひたすら化粧直しをしていた。モニターに映る観客の数と熱気が、手に汗をかかせていた。徐々に呼吸が浅くなっていくような気がして、落ち着こうと廊下に出ると、翔先輩がいた。
「先輩…。」
「やっぱり。具合悪いのか。」
「あの、緊張しちゃって、息苦しくて。」
「リハのとき、音がダブってて、気になったんだ。」
「いや、もうなんか、正直こんなに大きなところで…、たった数か月しか練習してないのにと思うとちょっと怖くて。」
「まあ、真人が説明をちゃんとしなかったのも悪いんだが。でもさ、俺らが目指す道って、ステージに立ってみることも大切なんだ。パフォーマーの気持ちを知ることで裏方としていろんなアイディアを提案できるし、一体になれる部分もあるんだよ。だから、講習とか体験学習みたいな気持ちでいればいい。」
「ちょっと例えに無理がありませんか?」
「そう思った?」
思わず笑いが吹きだした。
「やっと笑った。そう、そのままでいいさ。」
「ありがとうございます。」
「で、いつまでその口調のつもり?」
「あ、えっと、もうちょっと…。」
「パニくりそうになったら目を閉じて、俺の声を聞けばいい。後ろからずっと見てるから。」
私の話を遮るように、先輩はそういった。ほぼ同時に私の視界が先輩の胸でいっぱいになった。肩と背中にそっと私を抱き寄せた先輩の手や腕の温かさを感じた。ほんの少し、時が止まったようだった。このまま止まっていてほしいとも思った。体から離れ頭をぽんたたくと、翔先輩は後頭部に手を当てながら舞台袖を小走りで通り抜けていった。後ろ姿はいつもの先輩だった。
スタンバイの声が耳に入った。ステージに上がると客席に流れていた音楽の音量が大きくなり、雑音が消えて巨大なバブルのような空間になった。実緒とスミカの準備が整うまでの時間が妙に長く感じた。突然、自分の鼓動が頭まで響き、周りの音が全く聞こえなくなった。心配していたことが起きてしまった。慣れないことばかりが続き、緊張状態だったからだ。スミカがこっちを向いて合図をしているのが目に入った。
「朱里、朱里?」
「…朱里ちゃん」
真人先輩が駆け寄ってきたけれど、何を言っているのか聞こえなかった。必死に呼吸を整えようとした。このまま退場だけはしたくない。だから、お願い。
「…里、おい、朱里、朱里!」
もわんとした中に、かすかに翔先輩の声が聞こえた。それに真人先輩の声が続いた。
「朱里ちゃん、深呼吸。」
「大丈夫だ、俺たちがいるから安心しろ。あれだけ練習したんだから、楽しめ。昔みたいに無邪気に笑って楽しめばいい。顔を上げてみろ。」
正面にある調光室に翔先輩の姿が見えた。
「俺はここにいるから。どこへもいかない、そばにいるから。俺だけを見てろ。」
すうっと頭の中が晴れて、客席の音楽が聞こえた。
「すみません、真人先輩。」
「水、飲む?」
「ありがとうございます。もう大丈夫。」
真人先輩が実緒とスミカに話をしてくれた。二人が振り返りオッケーサインをした。20分。大丈夫、スミカと実緒がいる。真人先輩も、翔先輩も。フットペダルを3回、スネアを1回鳴らし合図を送った。
完奏しきった。
ーーつづくーー
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