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猫を吸うことは美的な経験なのか
1 前置き:美的な経験とはなにか
〈独特な仕方で美的と言える経験とはなにか〉、というのはかつて美学の中心にあった重要な問いだが、今日日そんなに流行っているわけではない。哲学者たちは線引きを諦めたり単に飽きたりして、ほかのもっと興味深い問いへと向かいつつある。しかし、多少なりとも美的なものを線引きしないことには、そもそも美学の領分でない現象について「美学者」が口出しすることになる。これは現象にとっても美学にとってもいいことではない、というのが私の意見だ。
かつて、美的経験は芸術鑑賞とほぼ同一視されていたが、21世紀の美学者はおおむねこの等式を手放している。非芸術(自然物など)を美的に経験することもあるし、芸術を非美的な観点(道徳的観点など)から鑑賞することもある。本稿が取り上げるのは前者にまつわる問いだ。美的経験が芸術鑑賞に限られないとして、どこからどこまでを美的経験として理解すべきなのか。以下では、この問いに対しおそらくもっともリベラルな答えを提示している、シェリー・アーヴィン「日常的な経験のあちこちにある美的なもの」(2008)を紹介する。
アーヴィンは、次のような日常的経験を美的経験に含めようとしている。
舌で歯の裏側の質感を感じる。
頬杖ついて、窓の外の池で泳ぐカモをぼんやり眺める。
砂利道を歩きながら、土のグラデーションとタイヤの跡を観察し、こういうデザインのスーツがあったらおしゃれだろうな、などと想像する。
両手でマグカップを包み込み、暖かさを感じる。
飼い猫に顔を近づけて、匂いを嗅ぐ。
シャープペンシルで頭を掻く。
結婚指輪をいじくる。
どれも、劇場でオペラを鑑賞したりオーロラを眺める経験に比べれば、(一見すると)些細で取るに足りない経験だ。多くの場合、経験者は自分がそういう経験をしていることに気づいてすらいない。しかし、アーヴィンによれば、これらの経験はそれでも美的経験である。
ぽつぽつ表明しているように、私はなんでもかんでも「美的」と呼び、「美学者」がいっちょ噛みすることに消極的だ。前半ではアーヴィンの議論を要約し、後半ではそれにケチをつける。
2 デューイの美的経験論
アーヴィンはまず、ジョン・デューイの美的経験論を導入する。デューイは『経験としての芸術』(1934)のなかで、芸術鑑賞に限らず日常的なものを含むワイドスコープな美的経験観を提示した、日常美学の先駆者である。しかし、そんなデューイもアーヴィンの挙げるような経験まで、美的経験に含めるわけではない。デューイには美的経験からこれらを排除するふたつの必要条件がある。
デューイ哲学の前提として、私たちは環境(≒世界)との調和と、この調和から外れた状態を行き来している。空腹、寒さ、疲れ、恐怖、痛みなどの不快を感じるのは、この調和から外れている証拠である。調和を取り戻すために心身を調整するなかで、私たちは自己の存在の深みに到達する充実感を覚える。美的経験は、デューイによれば、このようなプロセスの副産物である。
デューイは美的経験を、単なる経験[mere experience]と区別して、ひとつの経験[an experience]と呼んでいる。まず、ひとつの経験には明確な境界線と構造がある。つまり、散漫に漂い霧散して終わるのではなく、はじまり、展開し、到達点を経て完了するという仕方で、経験がパッケージ化されているのだ。デューイはこのような経験に浸透する質を統一性[unity]と呼んでいるが、これを持つためには経験にある程度の複雑さ[complexity]がなければならない。まとめ上げられるという感覚を得るには、そのための諸要素がなければならないのだ。
次に、ひとつの経験は経験者によってしっかりと意識される。具体的には、自分の行い[doing]と感じ[undergoing]がどう相互作用しているのか(行いを受けてどう感じたか、感じを受けて次になにを行うか)、意識的に注意を向けていなければならない。ぼんやりしていたり、ほかのことに注意が散っていては、ひとつの経験にならない。
ということで、デューイによれば、ひとつの経験=美的経験とは本質的に複雑で意識的な経験である。この特徴づけにしたがえば、アーヴィンの挙げる例の多くは美的経験から排除されてしまう。猫の匂いを嗅ぐ経験には、時間的な部分がまとめ上げられて頂点を迎えるような感覚もないし、対象やその性質の細部にかっちりと注意を払う感覚もない。ただ匂いを鼻で楽しみ、楽しみ終わったら終わりなのだ。
しかし、アーヴィンによれば、こうして日常的な経験を排除するのは間違っている。そもそもデューイ自身が、これらふたつの必要条件についてほとんど正当化していない。ひとつの経験は複雑で意識的でなければだめだと言い張っているだけなのだ。
3 意識的でない、ぼんやりとした美的経験もある
アーヴィンによれば、私たちは日常的に多くのことを無意識にやっているが、だからといってそれらが美的にどうでもいいわけではない。まず、いわゆるカクテルパーティー効果が示すように、私たちは無意識に多くの情報を受け取っており、それが表の美的経験に影響を及ぼすかもしれない。注意を向けていないにせよ、映画のカメラワークを無意識に追っていることが、場面の緊張感を認識するのに役立つなどはその例だ。とはいえ、これは無意識な経験が美的経験に役立ちうると言っているだけで、無意識な経験自体が美的でありうると言ったことにはならない(じゃあ取り上げるなよ、と思うが)。
続いてアーヴィンは、意識が程度問題であることを指摘する。十全に注意を向けている状態から、あいまいに意識している状態まで、いろんなレベルがあるのだ。アーヴィンによれば、意識の程度においてさまざまな美的経験があると認めればよいのであって、必要な程度の注意を下回る経験は美的ではありえないと制限するのは間違っている。
4 複雑でない、シンプルな美的経験もある
デューイによれば、美的な経験は複数の要素が組み合わさることで成り立つのでなければならない。ひとつの経験は、いわば閉じられているわけだが、アーヴィンによれば、このような「閉じ」にはふたつの解釈がある。
弱い解釈によれば、美的経験は、経験される対象がどこからどこまでなのか決まっているという意味で閉じられている。強い解釈によれば、それに加えて、クライマックスへと向かうような仕方で境界内の諸要素がまとめ上げられているという意味で閉じられている。デューイは後者を美的経験の必要条件としているが、アーヴィンによれば、これはある種の良い美的経験の特徴であって、美的経験のそもそもの条件ではない。統一性がなければ美的経験ではないというのは、良い美的経験かどうかの基準と美的経験なのかどうかの基準を混同しているのだ。
そもそも美的経験はなぜ閉じられていなければならないのか。アーヴィンの見立てでは、多くの美学者は美的判断の客観性を担保したり、経験対象を枠づけるために、このような閉じを求めている(この辺については青田さんの博論本が詳しい)。しかし、この目的に照らせば、弱い意味での閉じに訴えれば十分であり、強い意味での閉じは不要である。現代アートや前衛的な映画がそうであるように、ひとつの全体に向かって統一されていない作品のカオスさを鑑賞することは、それはそれで一種の美的経験である。
さらにアーヴィンは、弱い意味での閉じすら、美的経験には不要であると主張する。モノクローム絵画を鑑賞する経験には部分がなく、まとめ上げられる先の全体もない。しかし、だからといって美的経験ではないとは言い難い。アーヴィンによれば、美的経験がどれだけ意識的であるかが程度問題であったように、どれだけ複雑かも程度問題である。
最後に、もちろん、日常的な経験は実はすごく複雑なのだと言う余地もある。猫の匂いを嗅ぐ経験には、匂い、手触り、聴覚的、視覚的、感情的な、さまざまな構成要素がある。ということで、仮に複雑性が必要条件だとしても、そういった日常的な経験は美的であるための条件をクリアしうるのだ。
5 コメント:なぜ生活のあちこちに美的経験を認めるべきなのか
アーヴィンの議論はここまで、「Xを美的経験から排除する条件Cは正当ではない」というのに終始している。しかし、Xが美的経験ではないとは言えないからといって、Xが美的経験であると言うのは飛躍である。猫を吸ったり、シャーペンで頭を掻くことを美的経験とみなすべき積極的な理由はなんなのか。なにゆえ、それらは劇場でオペラを鑑賞したり、オーロラを眺める経験と同じカテゴリーに収まるのか。
アーヴィンは美的経験の代替的な定義を提示するわけではない。結局のところ、美的な経験のコアがなにであり、なにが含まれなにが弾かれるのか教えてくれないのだ。かわりに、自身の挙げる日常的な例をともかく含めるべき、みっつの理由を挙げている。それぞれ、認知的、快楽的、道徳的理由と整理してもいいだろう。
第一の認知的理由によれば、そういった生活のすみずみに美的経験を認めることは、自己について知るきっかけになる。知識を得るのは内在的に良いことであり、広くあちこちに美的経験を認めることで、自分の生活について知識を深めることができる……的なことをリチャード・シュスターマンを引きつつ言い張っているのだが、どうも煮えきらない。「自分の経験や生活はたいして美的ではない」と知ることも自己理解なのだから、この論点がリベラルな美的経験観のサポートになるとは思えない。アーヴィンも、この理由はそんなに推していない。
第二の快楽的理由によれば、生活のすみずみに心地よい楽しみがあるのに、美的でないとしてないがしろにすることで、得られたはずの快楽を見逃したり減らしてしまうことになりかねない。この理由もぱっとしない。第一に、ないがしろにされると快楽が減るというロジックが飲み込めない。第二に、ないがしろにしないことと「美的」の称号を与えることは別だろう。
最後に、アーヴィンがとりわけ推しているのが道徳的理由である。要は、足るを知れば私たちの暮らしはもっとエコにできるのだ。競争と消費の資本主義において、私たちはさらなる刺激を次から次へと追い求め、不摂生な暮らしをしがちだ。一見些細な日常にも美的経験があることに気づき、買っては捨てるような暮らしを改めるべきなのである。
アーヴィンは、日常的な美的経験を認めることが、菜食主義をうまく動機づけてくれるとすら述べている(アーヴィンはベジタリアンらしい)。ともすれば、菜食主義はモラルを優先して、美的な楽しみを我慢する禁欲主義とみなされがちだ。しかし、些細なものからもかけがえのない美的経験が得られると分かれば、菜食主義という選択は倫理か美学というトレードオフにはならずにすむ。美的に良い生活と、倫理的に良い生活は、日常的な美的経験を認めることによって両立可能となるのだ。
日常美学の人はしばしばこの手の理想論に訴えるが、私は正直ぜんぜんピンときていない。彼らがしばしば意図的に見逃しているのは、美的経験の優劣という観点である。マグカップの暖かさを感じるのも美的経験であるとして、それが劇場でオペラを鑑賞したりオーロラを眺める経験と同程度に楽しいとは限らないし、同程度に意義があるとは限らない。また、多くの芸術や文化は人間が足るを知らない欲望の塊だからこそ存在し、美的な経験や価値そのものを拡張させている。誰もが鳥のさえずりや木の実に満足する世界には、マスロックもガストロノミーも存在しないだろう。それはごく普通の意味において美的により不毛な世界であると感じる。
好意的にとれば、アーヴィンの主張は「日常生活にも美的経験はあるのでたまには注目しよう」ぐらいのことだ。これは完全に正しい。しかし、そうする理由として道徳的な配慮を持ち出し、そうしないことは不道徳だと示唆するのは、アンフェアというか、ほとんど脅しだ。それなら私にだって、「そうやって些細な日常に目を向けさせることは、些細でない大問題を覆い隠したり、与えられたもので満足する従順さ(「欲しがりません勝つまでは!」)を植えつけるという、イデオロギー的な機能がある」などと言い返す準備がある。そうしないのは、道徳バトルと化した哲学になにも面白みも感じないからだ。
再度、「日常生活にも美的経験はあるのでたまには注目しよう」というのは完全に正しい。それでも必要なのは、とどのつまり美的経験とはなんなのかという積極的な特徴づけだ。猫を吸うことが美的経験なのかどうかは、完全にそれ次第である。
まぁ、とはいえ、「オペラもオーロラもなくても、猫が吸える生活は美的に豊かだ」という考えには一定のもっともらしさがある。私は猫アレルギーなのでその豊かさを享受できないのだが、言いたいことは分かる。