【連載】鹿児島県民教育文化研究所の取り壊しに思う③
「鹿児島県民教育文化研究所」の取り壊し問題。なぜ所有者がこのような結論に至ったのかを推察はできても、それでもやはり、取り壊しには納得できない自分がいます。それは財団の所有物となった後、一時期かなり閉鎖的な場所だった研究所が2000年代に入ってから少しずつ、地域の人々に開放されるようになり、私も所属するまちづくりグループや他団体が様々なイベントで利用させてもらっていたからです。その繋がりもコロナ禍があったとはいえ唐突に断ち切られようとしていることが、悔しく、そして悲しいのです。
前回紹介した「ひなまつりサロン」のように、ここをメイン会場として利用するイベントのほか、まち歩きと組み合わせて利用するイベントもありました。上町地区のまちづくり団体「上町タウンマネジメント」ではまち歩き+研究所見学というイベントを数多く行いました。
例えば2014年12月に行った「島津四居城巡り」。これは中世城郭史が専門の三木靖先生を案内人に、東福寺城→清水城→内城→鹿児島城と変遷していった島津氏の4つの城跡を歩いて巡るというものでした。総距離は7㎞ほどあるので、ちょうど中間点となる研究所で昼食をとりました。島津氏の進出と勢力拡大の拠点となった4つの城がこの地に城下町を形成させ、上町は「鹿児島発祥の地」と言われるようになりました。そんな歴史をたどるまち歩きの昼食会場としてここは趣もあり、休憩には最適な場所でした。
また「上町タウンマネジメント」が毎年1月3日に行っている「上町五社参り」も、2016年からは五社参拝後にこの研究所で参加者におもてなしを行っていました。お抹茶とお菓子、鹿児島名物の両棒餅(ぢゃんぼもち)を召し上がってもらったり、建物の解説をしたり、メンバーが「南京玉すだれ」を披露したり。素人のおもてなしながらお正月のひと時を満喫してもらえるイベントとして定着していました。
関係者以外立ち入りはご遠慮ください、というバリアに包まれていた場所が少しずつ、少しずつですが、地域に開かれていたと思っていただけに、今回の所有者の決断に至るまで、地域にも、利用していた団体にもまったく相談がなかったことが悔やまれます。そしてイベントを行って自分たちが目標とした集客に満足し、会場となったこの場所のメンテナンスや活用について踏み込めなかった私たち利用者側にも改めるべき点が多かったのではないか、そう悔やむところなのです。
※本記事は筆者独自の見解であり、記事中に出てくる団体の総意ではありません。