母方の祖母
明治何十年か生まれの祖母は昭和の終わりに近い年の1月2日に80歳で亡くなった。その数日前、病状は深刻だったが入院中の病院から自宅に帰ってきた。一人暮らしだったから、近所に住む叔父夫婦が泊りがけで介護にあたった。本来は外泊できるような状態でなかったが正月ということでストレッチャーに乗せられ、叔父の運転する車で住み慣れた街を一周してから家に戻った。
私は12月29日に手伝い方々祖母の家に泊まりに行った。「おばあちゃん、久しぶり」挨拶すると、「そこにチョコレートがあるから食べなさい」もう起き上がることはできず、足はむくみ、黄疸も出ていた。食べ物もほとんどのどを通らない。祖母自身、自分の命が遠からず尽きることはわかっていたと思うけれど、死ぬつもりはなかったようだ。腕時計をはめ、愛用のハンドバッグを枕元に置いて「起こして。髪をとかして出かける。」と言い続けていた。
大晦日、祖母は思い出した。3月に結婚する近所の乾物屋の娘さんにお祝いをしなければならない。「イリコ屋さんのお祝いは何円にしますか」叔母が聞くと「5000円」細い声で指示したのが最後の言葉になった。それ以後、話しかけても返事はなく、私たちは思った。やがて来る瞬間を前にして苦しみもなく、眠っているのだろうと。もう長くはなさそうだ、ということで私の母をはじめ、祖母の子供たちが実家に帰ってきた。
元旦。久しぶりに一族集まったが、祖母の呼吸は苦しそうで、明らかに衰えていた。急遽病院に戻ることに。前日の穏やかな眠りと見えたのは、苦しい表情をする体力も無くなったせいだったかもしれない。家から出る時、皆でベッドの向きを変えようとしてガラス戸を割ってしまった事を覚えている。
病院に戻った祖母は口を開け、浅い息をしていた。濡らしたガーゼで唇を湿しながら耳元で「おばあちゃん!」と呼ぶとかすかにうなづくように見えた。眠っていると思っていた自宅での最後の夜、もっと話しかければ良かった。その夜日付が変わる頃、祖母は息を引き取った。
葬儀は4日に行われた。祖母の60歳近い娘達3人は近所の美容院で髪を整え、見違えるほど若々しくなった。地元の水商売のお姉さん方が毎日通う、セットが上手な店だった。
追記 通夜と葬儀は自宅で行った。式場の体裁を整えるために色々なガラクタを片付けていると、台所の戸棚からきれいに洗ったプッチンプリンの空き容器が何十個も出てきた。再利用もできないのにどうして?よく見ると、すべて底の「プッチン」を折らずに置いてあった。ゼリー型か何かに使うつもりだったのだろうか。 2021/07/15
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