【2024.12】ルイーズ・ブルジョワ展
六本木ヒルズの前にある、でっかい蜘蛛。
仕事でたまに六本木駅に行くのだが、毎回なんやねんこれ、と思っていた。
そしたら、例の蜘蛛のすぐ近くで例の蜘蛛の製作者の展覧会をやるらしい。
あんなにデカい蜘蛛を作るんだからさぞ大きな蜘蛛なんだろうと思ってでかけた。
おばちゃんでした。
「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が展覧会のタイトル。なろう系みたいだ。
行く前に、X上で論争が起きているのを見かけた。
簡単に言うと、「ルイーズ・ブルジョワ展に行ったけどどうも浅かった。」という意見に対し、「この人は何も分かっていない。ブルジョワの作品の文脈を一から勉強し直せ」という反論。まぁまぁデカく燃えていた。
展覧会を見終わってからの感想としては、「この人たちはよくもまぁそんなに自信満々に芸術の解釈を述べられるなぁ」という感じ。
芸術って究極的には、物質を通して鑑賞者の情緒を引き出す触媒的なものでしかなく、芸術そのものに何らかの決まった効果があるわけではない。入浴剤じゃないんだから。
私は芸術を見て、「ぜ~んぜんつまんなかった!カスのしょんべん!」とも「世紀の大傑作!!宇宙一のマスターピース!」とも言えない。どちらを言ったところで、芸術の本質を引き出せなかった、あるいは芸術によって容易く感動を引き摺り出されてしまった己の幼稚性が露呈するだけだからだ。
でもまぁ、少なからず思うところがあったので、こわごわ書いていく。
ルイーズ・ブルジョワは展覧会を通して、基本的にずっと父親にブチキレている。上の作品は、父親をバラバラにして家族みんなで食べるとか、確かそういうコンセプトの彫刻である。
ブルジョワの父親嫌いの原因は、ブルジョワの幼少期に父親が家庭教師と不倫関係にあったかららしい。自分を裏切った父親と、それを見て見ぬふりをした母親にブルジョワは屈折した感情を抱いていく。
更にブルジョワは自分が母親になったことで、女親については更に混迷を極めていく。
うわー、しんど、と思った。なぜなら、私も両親に対してはかなり負の感情を抱いているので。
私の両親はかなりの虐待親で、殴る蹴るは当たり前、5歳くらいのときに真冬の寒空の下に放り出されて漏らしたこともある。それでいて両親は私のためにお金を使うことは厭わない人たちで、上等なレゴやたっかい学習塾や高級なディズニーランドのホテルは惜しみなく与えた。それゆえに彼らは世間的に見れば素晴らしい親であり、それは部屋で親の足音に怯える私の孤独感をより増幅させた。
まぁブルジョワが親に対して抱いている嫌悪感というのはもっと生理的なもので、性質こそ違うかもしれないが、その根源が屈折するうちに芸術へ辿り着いたというのにはとても共感を覚える。いや、覚えざるを得ない。ゆえにしんどい。
しかしこれは心地のよいしんどさである。私があの親との関係に思い悩み、映画に縋った日々は間違いではなかった、同じような道を歩んだ者がいる、ということを実感できる。
先ほどの話に戻ると、この展示が全く気に入らない人がいることも頷ける。
ブルジョワのように身近な人、あるいは自分の存在に対して屈折した感情を抱いていない人は、作品を鑑賞しても実感が伴わないので、空を掴んでいるような感覚になると思う。簡単に言えば親との関係が良好な人、あるいは関係性を修復できた人。
こういう人は往々にして、揺るぎなく「子は親に感謝すべき」「いつまでも子供時代のことを根に持って親を恨むのは幼稚」との思想をお持ちだったりする。そうするとブルジョワの作品群は途端に稚拙な、おもちゃを買ってもらえなかった子供が黒いクレヨンで描く渦巻き模様へと成り下がる。
別にいいと思います。一定の芸術を受け取れないことも、それはあなたを特色づける一要素だから。
先述のXでブルジョワ展を批判していた人は、ブルジョワの恨みと屈折とコンプレックスの詰まった作品群に「エンパワーメントがない」というようなことを言っていた。
なるほどな、と思う。
これをエンパワーメントと受け取ることができる人とできない人(あるいは、受け取ってしまう人とそうでない人)の間には埋めることのできない溝がある。その溝はクリエイターであったことがあるかどうか、親との関係が良好であったかどうか、自分に自信があるかどうか、父親か母親か、男か女か、子供か大人か、全ての間に横たわり、そして全てを繋いでいる。
ブルジョワ展になど感動しない方が人生は幸せかも知れない。
それでも、この屈折したクリエイターとしての営みは、ブルジョワ展という”地獄”を「素晴らしかったわ」と言ってのけることを可能にしている。