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眠くなるスピーチにも、攻めの聴く姿勢を取る

新年度。3月は卒業式に送迎会、4月は入学式や始業式・歓迎会など、偉い人のスピーチを聞く機会が多い季節です。

自慢できることでは全くないのですが、私は今まで聞いた偉い人のスピーチの中で、覚えてる内容が1つもありません。

中学高校は一貫校に通っていまして、2週間に1度、校長先生のお話を聞いて感想文を提出するという行事がありました。

月2.5回のお話を聞くとして、夏休みなどを含めると1年のうち10ヶ月間×6年聞いていたとすると単純計算で150回校長先生のお話を私は聞いたことになるのですが、先生が何を言っていたか1つも思い出せない。というか先生の顔と名前も思い出せない。(先生、ごめんなさい)

社会に出てからは会社の偉い人の訓示を聞くことも多いのですが、貧血持ちの私は立っているのが辛く「早く終わらないかな~」とばかり考えたり、その後の立食パーティーのおかずが何か考えたりして時間を潰していました。

先日、漫画「ちはやふる」の作者・末次先生がこの現象について

「人は与えられた情報はスルーしてしまうけど、自分から取りに行った情報は、良くも悪くも心に残る」

といったようなことをおっしゃっていて、長年どうして偉い人のスピーチの内容を覚えられないのか、わかったような気がしました。

私は「この人に会いたいな」と思った人には、国内なら大体すぐ飛んで会いにいくことにしています。

うまくいえないのですが「この人に会えば、自分の人生が望んでいる方向へ向かう助けになるだろう」という心の直感に従う感じです。
そうして時間と交通費を掛けて会いに行った人の話やその人の質感は、いつまでも心に残っているように思います。

というのも、私がわざわざ時間やお金を掛けて情報を取りに行くときというのは、大体人生が行き詰まっているときだからです。

「私の人生はどうすればいいのだろう」という問いを持っているから、例えつまらない話を聞かされている時でも「つまらない話を聞かされている被害者の私」から「きっとこの時間にも何か意味があるはずだ」と攻めの聴く姿勢を取ることができます。
そうすると被害者の時はきっとスルーしていた大事な情報を、得ることができる。

以前、はるばる夜行バスに乗って大阪まで文章を習いに行ったのに「今日は気功をみんなでやりましょう!」と文章の先生に言われた時は被害者になりかけましたが、なんとか持ち直して、最終的には喉から手が出るほど欲しかった文章技術の情報を手に入れることができました。

ネイティブアメリカンの言葉で「答えを持った部族は滅び、問いを持った部族は生き残った」というものがあります。

常に問いを持つことで、一見つまらない情報にも意味を見出すことができる。「私はこういう人だから」と決めつけるのでなく「私にはどんな可能性があるのだろう?」と問いを持って生きていると、その問いへの答えが思ってもみない形で返ってくることがある。

どんな状況になっても受け身ではなく、意味を攻めの姿勢で取りに行く、という気概でいつも生きていたいです。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。