見出し画像

いい先生の条件とは?教習所のえばる教官から考える

今から15年前の冬、自動車免許の合宿に行った。
2週間ほど山形の施設にいたが、教官は皆チンピラのように乱暴な口の聞き方の人ばかりで憂鬱だった。

最近は優しい教官を指名できる教習所も増えているらしいが、自分が通っていたところは地方ということもあってか、怒鳴り、命令口調で指示し、ため息や舌打ちでプレッシャーをかけてくる教官ばかり。

ある人は教習所のことを「お客様に威圧的に商品を売りつけることで成立する、非常に異常な民間サービス」と表現していた。
なんとか免許を取得した後は「もうあのオッサンたちに怒られることはない!」というのがひたすら嬉しく、そのままペーパードライバーまっしぐらに生きてきた。

それから時は流れまくり、2024年。
自分は会社を辞め、文章教室をするようになった。出会った人に仕事のことを話すと、時たま「俺は文章が嫌いなんだよ!」と怒り出す人がいる。

仕事の話をするだけで怒られるのは正直憤慨なのだが、自分が教習所でいい思い出がないように、彼らにはきっと書くことを習う時、いわゆる先生と呼ばれる人から嫌な思いを受けてきたのだろう。

あるいは自分が書いたものを誤解されたり読まれなかったり、そうした苦しいときに頼るべき存在がいなかったのだろうと推測する。

数年前、自分は文章教室を開いて書くことの楽しさを伝えられるようになりたいと、場づくりの学校に通っていた。

そこでの最終試験に合格した際に言われたのが「仁美さんが誰よりも学び、書き続けることが、文章の先生であることの条件です」という言葉だった。

実際に文章教室を開くようになって痛感するのが「自分はなんて物知らずなんだろう」という絶望である。講座が終わった後はいつも「もっといい言い方があったのでは」とか「こうしていたら」と、タラレバばかり浮かんで苦しい。その苦しさを紛らわすように、一回講座を開くたびに本を買って読んだりセミナーに出たりしている。そうした後悔からくる知識や実践が次の講座をよりよくするので、悪いことばかりでもないのだが。

先日「私は習い事が嫌い」という人たちに出会った。自由にやりたいときにあれこれ指示されるのが好きではない、とその人たちは言っていた。

人は自分のありのままを認めてほしいし、そのままの自分を素晴らしいと言ってもらいたい生き物だ。
だが習い事の場では、新しい技術を学んだり苦手なことに取り組んだりと、そのままの自分ではいられない場面が大半である。

こうした自分のままではいられない局面で、参加者の方がいかに自分らしく・楽しく学びを深められるようにするのが先生の腕の見せ所なのだが、残念なことに世の中には未だ教習所のように、役割と権威をかん違いしている習い事の先生も多い。

100歩譲って「そのままのお前じゃダメだ」というメッセージで上達する習い事なら、それでもいいのかもしれない。でも自分にはそんな習い事は思いつかない。そもそも人はけなされてる時より、褒められて調子に乗っている時こそ、力を発揮する生き物だ。

「調子に乗っている」というのはしばしば否定的な意味合いで使われることが多いが、コンディションがいいことの一体何が問題というのだろう。サーフィンだって、波に乗れてる状態で初めてボードの上に立てる。音楽だって、演奏者が乗っていると客席にそれは必ず伝わる。

無理におだててたりおべっかを使う必要はないが、参加者の可能性にいち早く気づき、そこを伸ばす。最終的に先生がいない状態でも自走し始めるようになる、これこそ習い事の理想のゴールではないだろうか。

自転車の練習ではバランスが取れるようになると、後ろで支えてる人がいなくても走れるようになる。
一人で走り始めた参加者の背中を見送った時、先生は初めて先生たりうるのかもしれない。












*お知らせ*
毎月行っていた文章ワークショップにつきまして、(講師の体調の関係により)一旦10月19日(土)の回をラストとさせていただきます。

気になっていた・いつか参加しようと思っていたという方は、ぜひ最後の入門編にご参加ください。急なお知らせとなってしまい、申し訳ありません。

10月からの連続講座は、まだ申し込み可能です。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。
明日も適当にしっかりで参りましょう。

いいなと思ったら応援しよう!

小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。