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嫌なことを嫌だと伝えるのは、訓練が必要らしい

facebookやインスタを見ていると、自分以外の皆が、何もかもうまくいっているように見える時がある。「すまんがその光をしまってくれんか・・ワシには眩しすぎる」と、ラピュタのトムじいさんになることもしばしば。

Twitterは好きだけど殺伐としていて、闇が深いのをたまに感じる。noteは光からも闇からも逃がれてきた人たちが、ホッと一息つくような雰囲気がして好きだ。とかく現代社会はポジティブが求められるところのようである。

最近、母親に声を荒げながら「手術しろとか子どもを産めとか、そういうことを言われるのが嫌なんだ。とにかく嫌だから、もうやめてくれ」と乱暴な口調で申し上げた。一言で言えばブチ切れたのである。

そこから、少し母は大人しくなった。何度「開腹手術しろとか卵子凍結とか言わないで」と穏やかに言っても聞かなかったのに、大声で「もう嫌なものは嫌なんだから、人が嫌がることは辞めろ」と怒鳴ってやっと伝わったようだ。

少し前、ネットで「男性の多くが女性が嫌がっていることを理解できないという症状があるように思う」という発言がバズっていた。

確かに以前自分がお付き合いしていた男性も、私が嫌がることをそれは嫌だと伝えても「いや、そんなわけがない」とさらりとなかったことにする人だった。私の「嫌」は彼の脳では受け付けないようだった。
世の奥様が「旦那に何度言っても聞いてくれない」というのはよく聞くがその逆はあまり聞かないように、確かに男性は自分だけの世界で閉じてしまっている傾向がある。

だが一概に「男だから〇〇」と括るのも、ちょっと乱暴な話である。男性でも嫌だと伝えればすぐやめてくれる人はいるし、女性で周りの人が嫌がっていることを続ける人も、以前職場にいた。「自分は嫌じゃない」「嫌がるあなたがおかしい」という言説にすり替える人は男女ともに一定数いる。

思うに、嫌だと伝えてもそれをやめない人というのは、自分と他者を見分ける境界線が薄い人間ではないだろうか。
彼ら彼女らにとって「自分=世界」なので「自分が嫌じゃないこと」は「誰も嫌じゃないこと」という世界で生きている。これは他者の嫌を理解するまでに相当な時間がかかるだろう。

そしてこの現象は、家族という狭く濃い関係性で、よく起こる。

冒頭の母親にしても世の旦那様にしても「子ども(または配偶者)=自分」という図があるのではないだろうか。だから多少やめてほしいと言ったくらいでは「とはいえ自分は嫌じゃないから、あの人だって嫌じゃないはず」となる。

アメリカでは幼稚園や小学校の頃から「NO」という訓練をしている。嫌だと思ったことを瞬時に嫌だと判断し伝えられるようになるのは実は時間がかかるため、練習する必要があるとのことだ。

思えば日本の教育現場では「NO」があまり尊重されてないように思う。
誰かから嫌なことをされたら「謝ってるんだし」とか「悪気はなかったんだから」と、まるで「嫌だと思ったあなたが悪い」ように問題がすり替えられていることが多い。

だから真面目な人ほど「嫌だと思う私が悪いのかな」と感じてしまい、ますます嫌だと言えなくなる。強く言ってみると「そんなに怒ることじゃないだろう!」と逆に怒られてしまうこともある。

しかし「そんなに怒ることではない」は本来、誰か他者が決めることではない。
私が、世界で最も大切にされるべき存在の私が、それほど怒ることをあなたはしているのだという主張は、すぐに尊重されて受け入れられるべきレベルの話のように感じる。「私はそれは嫌だ」と声を上げることを相手への攻撃と捉える人も多いが、嫌なことを伝えるというのは、自分と他者との境界ラインを防衛すること、ただそれだけに過ぎない。

ポジティブでわかりやすい光が求められがちな社会では、私はそれでいいです♡と何でも肯定することが、特に女性は賞賛の対象にされることも多い。

しかし自分の考える光とは、どんな闇にも屈せず懸命に生きようとする人の人生そのものであり、その主人公である自分を守ることは、どんな時代でも、どんな環境に置かれても、守られ行使すべき当然の権利であるように思う。

つい自分さえ我慢すれば、、となってしまいがちな自戒を込めて。







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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。