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胸を打つ文章の源流に流れているもの

自分のやっている文章教室では「強く言い切らないこと」の大切さをまずお伝えしている。
するとだいたい「そうはいっても言い切らないと、なんだか印象が薄くなりませんか?」とか「強い言葉を使わないと、伝わらないんじゃないですか?」といった質問が出る。

なぜ強い言葉を使ってはいけないのか。

その答えになりそうなことが、先日買った本「雨の日の心理学」の中にあった。それは「心の世界において、人とつながるとき。まずはケアが先で、次にセラピー。この順番を間違えてはいけない」というものだった。

ケアとは、傷つけないこと。
もし子どもが「学校に行きたくない」と言っていたら、じゃあとりあえず今日は休もうか、と声をかけるのがケアに当たる。喉が渇いている人に対して水をあげたり、事故で骨折した人に手当てをすることなどもケアに当たるだろう。

そしてセラピーとは、傷つきと向き合うことである。
先ほどの学校に行きたくない子どもであれば「最近ずっと学校に行きたくなさろうだけど、何かあったの?そろそろ行かないと、勉強おいつかないんじゃない?」と向き合う。

喉が渇いている人に「こんな暑いところにいたら、熱中症になっちゃうよ。涼しいところに行ったら?」と指摘したり、骨折した人が病院で手当てを受けた後、歩けるようにリハビリすることなどがセラピーとなる。
依存を一時的に引き受けることをケア、自立を促すことをセラピーともいう。

問題は、ケアのないセラピーは暴力になるということだ。

先ほどの例でいうと、喉が渇いて苦しそうな人にまず必要なのは水分である。それなのに「ちゃんと水飲んでないからそんなことになるんだよ!」とだけ言って立ち去ったり、足が折れてる人に向かって「よし、じゃあ歩ける練習をしよう!」と無理やり立たせるようなものである。

子どもの例でいえば「学校に行きたくない」と話す子どもは、まず休ませるのがカウンセリングの世界では鉄則らしい。甘いかもしれないが、人は自分のニーズを認めてくれる人の話を聞く生き物だ。

「学校に行ったらどうなの?」という親の言葉も、自分の話を聞こうともせず無理やり行かせようとする親と、何日か休ませてくれてから言う親。子どもが素直に言葉を受け取ってから行動に移すのは、後者の方ではないかと思う。
世の中には依存は悪、自立こそ正義という流れがあるように感じるが、そもそも依存と自立は簡単に切り離せる関係にない。

話を文章に戻すと、強い言葉や言い切って書くことは、読み手の心の状態によっては暴力となることがある。

「そんなことやってるからダメなんですよ!」とか「もっとあなたのリーダーシップを発揮して!」など、書き手はよかれと思って書いているかもしれないが、今まさに追い詰められている読み手にとっては、責められている印象を抱くこともある。

書きたいことを書きたいように書くというのは、心理学ではセラピーに当たる。だけどそこをぐっと抑えて、文章に余白を生ませる。

「あ、この人の言葉は私を傷つけない。」

まずはそう読者に無意識に思ってもらうことが、読んでもらうための第一ステップだと思っている。信頼関係がない状態で発する言葉ほど、響かないものはない。

今まさに傷つき、どしゃ降りの雨の中にいる人に傘を差すように。
そしてこれからの道をどんな風に歩いていったらいいのかを一緒に考えるように、書く。

これが本当に自分が伝えたいことを伝えるための順番であり、琴線に響く文章の源流に、時代を超えて普遍的に流れているものだと思っている。









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創作大賞2024にて、中間選考を通りました。いつも応援してくださっている皆様、本当にありがとうございます。

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入門編もやっています。


今週もお疲れさまでした。
お勤めの方もお休みの方も、素敵な時間になりますように。


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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。

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