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「わかりあえないを超えたい」と、うどんをすする

ある日曜日の正午過ぎ、よもぎ蒸しで身体を温め心身ともにすっかり緩んだ私は、某はなまるうどんに入った。厨房の方を見ると、パッと見60代くらいの白髪の男性が忙しそうにうどんの注文を取っていた。

厨房の男性は私に注文を聞いてきたので「かけうどんのをお願いします」と言ったところ「はいーかけうどんのね!」と返してきた。

はなまるうどんの小サイズは文字通り小さい。
ふだんの私は24時間緊張ぎみなので小でもよいのだが、このときの私の胃袋はよもぎ蒸し帰りでリラックスしており、中サイズを求めていた。

急いで「いえ、です、!」と強調して伝えたところ、男性は「はいーかけのね!」と言ったのでホッとしていたところ、男性はうどんを器によそい、隣の調理担当の女性に小声で「かけの」と言って渡した。

えっ今このオッサンって言った!?

私は急いで「」であることを伝えようとした瞬間、女性スタッフがうどんに勢いよくおだしをかけた。伝えるタイミングを失ってしまった。満面の笑顔で女性が「はい、かけのお待たせしました!」と提供したうどんを、私はじっとみつめる。

もちろんここで店員さんに作り直してもらうことはできる。
しかしこうして間違えてオーダーされた料理というのは十中八九、廃棄される運命にあることを飲食店バイトの経験から私は知っていた。

もったいないの気持ちが上回り、結局かけうどんの小を無言で受け取って食べた。家に帰っても空腹は収まらず、さつまいも・紅はるかを粛々とふかし、それを食してやっと空腹と腹の虫がおさまった。

こうしたコミュニケーションのすれ違いというのは、よく起こることである。

あの時「私が頼んだのは中ですよ!」とその場で怒れば、すぐに店側は作り直してくれただろう。
怒りというのはホットな事象なので、たとえ誤解やすれ違いが原因だとしても、そのリカバリーは比較的容易である。しっかりと言葉を尽くせば誤解だったことがいつかはお互いにわかるからだ。

しかし私はこうした場合、たいていすぐに怒ることが出来ない。そしてだいたい二度とその店にはいかなくなるし、ふだんのコミュニケーションでも相手に対し冷淡になってしまう。

こうなるとリカバリーは難しい。怒らせた方は「なんか最近あの人はっきり伝えてくれないな、なんか冷たい感じがする・・」と、無視に近い状況に追い込まれる。

こうなってしまう原因としては、私の中で人とつながっていたいという想いが強すぎることにある。大切な想いでつながっていたい、共有していたい、完全にわかりあっていたい。自分の理想とする状態が高いから、いちいち人間関係で起こるちょっとしたことで、相手に失望してしまう。

人間関係の専門カウンセラーの中には「本当にわかり合うために、一度衝突させる」とまで言う人もいる。
本当に私が望んでいる状態をつくりだすためには、衝突をおそれる気持ちと向き合う必要があるようだ。その恐れをゆるせたときに、真の平和が心にやってくる気がする。

一杯のかけうどんから壮大な話になってしまった。でも日常には常に、自分の願いが反映されている。

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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。