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太陽が暖かい理由を知った日

高校二年の夏に病気で三ヶ月間入院しました。
「こうこうにねんせい」という甘美な響き。人生で最も輝いていられる十七歳という年齢。
幼い頃からずっと憧れていた人生の一番旬な季節でした。
それがまさか、病院のベッドの上で過ごすことになるなんて。
しかも手術をして、とある臓器のほとんどを摘出したのです。
 そんな自分が可哀相で、この出来事は、これから始まる人生に、大きな影を落とすものだと思いました。

高校時代、硬式テニス部に所属していました。子どもの頃に見たお蝶夫人に憧れて、高校ではテニスをすると決めていたのです。
夏が始まり、間近に控えた高大連(インターハイ)の試合に向けて、毎日練習に明け暮れていました。朝練、昼連、部活が終わってからもボールが見えなくなるまで居残りで練習。休みの日も自主練。
強豪校でもないのに、部員みんながそんな風に練習に打ち込んでいました。

大会の二日前の夜、突然下腹部に激しい痛みが現れました。
実は子どもの頃から謎の腹痛があったのですが、母に言うと、場所から見てそれは盲腸ではないから大したことはない。寝れば治ると言われました。
実際寝ると翌朝には軽くなっていたのです。
しかし中学時代、痛みが激しくなり、ある日、その痛みに耐えられず早退して病院に行きました。診察した近所の医師は、私がちょうど生理中だったため、ろくに検査もせずに、それは生理痛だ、我慢しろと、痛み止めを注射しただけで帰しました。
それ以来、母からも、生理痛は誰だって痛いのだと言われ、私はそれ以上誰にも言えずに耐え続けたのです。
そんな腹痛が、とうとう限界値を突破してしまいました。
時間が経つにつれ痛みは増し、しかも恐ろしいことに、腹部がどんどん膨らんできました。

インターハイで、二年生だった私が参加する試合はダブルスでした。私が休むともう一人が出場できなくなるのです。だから誰にも言えずに必死に耐えました。
試合当日には、立ち上がろうとすると足に力が入らず、勝手にしゃがみこんでしまうほどになっていました。
しかし恐ろしいことに、物心ついた時から腹痛があり、しかもそれを母親にも近所の医者にも、我慢しろと言われて素直に我慢した結果、私は痛みに耐えることができてしまったのです。
しかしさすがに試合が終わると痛みに耐えられなくなり、心配した先輩にタクシーに乗せられ、病院にいきました。

病名は卵巣膿腫。(原因不明ですが、母の胎内で死んだ双子の片割れとの説もありあます)
手術後の医師の診断では、かなり小さい頃からあったので、ずっと強い腹痛があったはずだと言われました。
その腫瘍が、成長期で一気に大きくなり、それが激しい運動(毎日休みなく練習を続けていたこと)で、体内で腫瘍ごと卵巣につながる卵管が、何かの拍子で捻れてしまったのです。卵管の捻じれた箇所で血流が止まり、その先の細胞が壊死していきました。壊死して体内で腐りかけていたのをそのまま放置したので、腹膜炎を起こしかけていました。
すぐに手術をしないと危険だと医師に言われました。
よくこんなになるまで我慢していたと驚かれました。

手術してみると、腫瘍は両側にあったため、右側の僅かの卵巣を残し全て摘出しました。

病院に行った頃には、痛みで意識がもうろうとしていて、今すぐお腹を開いて、早く痛い物取りを除いて!という気持ちしかありませんでした。
痛みが消えて落ち着いてから、自分にはもう卵巣がほとんど残っていないという事実に愕然としました。
幼い頃から、自分がこの世に生まれてきた意味は、自分の子どもを産んで子孫を残していくことだと強く思っていたのです。
小さい頃から子どもが大好きで、早く結婚して自分の子どもを産みたいと願っていたのに。
それなのにたった十七歳で、妊娠する可能性がかなり低いと言われたのです。
私は、悲しみのどん底に落ちました。

ついでに言うと、入学した頃から憧れていたテニス部の先輩に、私が入院中に恋人が出来てしまいました。
秋に修学旅行を控えた同級生たちが、どんどんカップルになる中で、夏休みのすべてを病院で過ごすことになっていた私は、人知れず失恋もしていたのです。

私が入院していた病院は、高校のすぐそばでした。そのため屋上に上がっては、校舎を眺めて、悲劇のヒロインのようにしくしく泣いて過ごしていたのです。
そんなある日のことでした。
屋上へ泣きに来ると、小雨が降っていたのですが、私が屋上に出たタイミングでパーッと空が晴れたのです。
あまりの天気の良さに、泣きに来たというのに、うっかり幸せな気分になってしまいました。

その時、唐突に思ってしまったのです。

太陽は一個しかないから、世界中の人たちが見上げる太陽は、たった今私が見ている太陽なのだと。

当たり前のことなのに、突然腑に落ちる瞬間があると思うのですが、まさにそのタイミングでそれが起きたのです。
世界のたくさんの国の人たちのことが頭に浮かびました。
遠くて、文化も価値観もよく知らない国の人たちもいるでしょう。一生会うこともない、たくさんの、ほんとうにたくさんの人たち。
この星に生きているすべての人が見上げているものを、私はたった今見ていると。

同時に、同じ太陽の下でたくさんの人が生きていると思ったら、 自分の不幸もたいした事ないと感じました。
私より幸せな人はたくさんいる。だけど私より不幸な人もたくさんいる。たくさんいすぎて、そんなことをあれこれ比べることに意味はないと実感したのです。
だって、世界の人たちの数は膨大ですから。

校舎を見ては、同級生たちが当たり前のように学校に行き、当たり前のように授業を受けている。なのに私は学校に行くこともできずに、ひとりぼっちで苦しい治療を受けている。
同級生たちの中で自分が一番不幸だと感じていたのです。
でもそんなことはどうでもいいと、唐突に思ってしまったのです。

すると太陽が言いました。
正確には太陽が声を出して言ってきたのではないのですが、太陽が私に何か伝えているような気持ちになったのです。

「一つの出来事もその人の取ようによっては、不幸になったり幸せになったりする。妊娠出来ないかもと思えば、それは不幸かもしれない。だが、もう少し発見が遅ければ全部摘出されていたのに、一部残ったことは、妊娠できる可能性が残ったということだと思えば、それは幸運なことだ」

そうだ。
確かに一部残ったのだ。つまりそれは、私には妊娠する可能性が残っているということだ。
それは体中が震えるほどの発見でした。
失った方を見て絶望していたけれど、残った方を見たら、それが奇跡としか思えず、涙が出そうになったのです。
神様ありがとう、私に妊娠できる可能性を残してくださって!
心からそう実感したのです。

その日から、意図的に、どんな出来事があっても、あの屋上で感じたように、失った方を見るのではなく、残った方を見よう、よい方からその出来事を捉えようと決めたのです。

手術を受けてから5年後に、私は妊娠しました。
その後、三人の子どもに恵まれ、その全員が無事成人してくれました。

私に子どもを授けてくれた 全てのものに深く深く感謝しています。



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遊月 海央(ゆづき みお)
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