仏の顔も三度まで
コロナ渦の頃はずっと「次の目標について」考えていた。
年始くらいまでは「こうなりたい」という目標があった。
…しかし、今はその目標丸ごと手放すことになった。
だからこそ、次の目標についてよく考えていた。
手放すというのは、スピリチュアル的な要素ではない。現実・感情の断捨離みたいなものだ。
一つずつ捨てていいし、なんなら丸ごとぽいっと捨ててもいい。
わたしは自分が選ばずとも、目標だったものを丸ごとぽいっと捨てて、さらにそれに対する愛着や希望を一つずつ捨てるはめになった。
長年の夢だった仕事や、大切な友達との関係。
それによりもたらされる将来の自分のビジョン。その全てを一つの事象で手放さざるえなくなった。
今はその喪失感と向き合っている最中だ。
その時、スピリチュアルカウンセリング団体がやっているお茶会に誘ってきた女性がいた。
私は占いをしている。隣接業界のようなものだろう。
正直チャネリングやスピリチュアルカウンセリング、インナーチャイルドカウンセリング、ヒーリングをしている人のことは悪くいう気は全くない。
そう言ったものも有ってしかるべきだと思う。
それで救われる人がいるのだろうから、それは良いことなのである。
その人の選択や興味が向くことをやるのが、人生の中での最良の選択だと私は思う。
それを前提において、だ。
カウンセリングというのは「心理士」のやる仕事だと思っている。
心理士でもない人がカウンセリングをするのは危険ではないか?と思ったりもする。
(心理士でも「こいつぁやべぇ…」ってなる心理士もいたりするからなんとも言えないんだけど)
私はその女性からのお誘いを過去二度ほど断ってきた。
そして、さらにこの状況下で同じ誘いをしてきた。
しかも彼女が信じるスピリチュアル団体についての内容を、LINEの画面を占領してまで、何度も複数回も渡り貼り付けて、だ。
「仏の顔も三度まで」とはよく言ったもので、流石にそれをみた時に私は気持ち悪さでブチ切れた。
まず前提として、人が大切にしているものを基本侵したくない私は、基本的に全ての事柄において断り方もやんわりとした態度を崩さない。
だから押せばいけるとでも思われたのだろうか?
それは全く逆である。
「柳のようにしなるからこそ、絶対に興味のないところには興味がない」のだ。
彼女は私に起きたことが「全て愛を知るための魂の学び」だと言った。
それは渦中の人間に言う言葉ではないし「愛を知るための魂の学びってなんぞや?」となったしなんなら私は「輪廻転生を信じていない」タチなので、そんなこと言われても…となった。
(詳しくは書けないが、まだなに一つとして法的に解決していないので、渦中の人間である)
さらに「楽になるために私たちのお茶会にきませんか?」と、要約するとそんなことも書いてあった。
しかし、だ。
相手のしたことを全てまるっとうけとめて「魂の学び」と言う名の自己責任論にするのは違うぞ、と思う。
法的に見て被害者は被害者であって、加害者は加害者である。
法律や諸々のことを飛び越えて「魂の学び」などと言うのが、スピリチュアルヒーリングやカウンセリング、チャネリングなのか?
少なくとも私は法治国家で地に足つけて生きているのだから、そのようなものではないと思っている。
彼女のしたことを私は許す気はない。
「仏の顔も三度まで」だからだ。
さらにいうと、私の知っているスピリチュアルまでも彼女は侵したような気がする。
なんならその業界に関わる全ての人に対しても相当に失礼だろう。
そんなクソみてぇな奴と一緒にされたくないだろうし、なんなら占いが好きで学んでいる私も同じような気持ちだ。
なにが言いたかったかっていうと。
彼女の行為はスピリチュアル全体に対する冒涜だ、ということ。
以上です!!!
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