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想像力の射程

年末年始の予定を終えると、怒涛のお茶会つづきで、とうとう3月になってしまいました。
(と書いた文を編集しているのですが、まさかもうすぐ5月になろうとしているとは。絶対になにかがおかしい。)

その忙しい中、このあいだのこと、ひどい食あたりを起こして、まともに起きあがれなくなってしまった。
長いこと忘れていた病床というものを、まざまざと感じさせられた数日間でした。

人は、自分が想像できる範囲ばかりを、都合よく見ているものだ。その視界の外部を想像するような力を持つことが根本的にできない仕様になっている。そのことを強く思い出す、白昼夢のような朦朧とした時間をすごしました。内容物のなくなった胃から、緑色の胆汁をひねり出そうとする身体を持てあまして、気絶するように寝入ることをくり返しながら、こんな世界もあったよな、と、現実か夢かおぼろげな記憶の中で考えていた。

坐禅や瞑想の経験者がやりがちな、いわば裏技のようなものだが、「苦痛をいかに実体視しないかゲーム」を延々とプレイし続ける、これは良い機会となった。同時に、今の体調から見える景色では、ゼロから発心修行することはとてもできなかっただろうな、と、そう思った。また、そのせいで自身の想像力の欠如を嘆くような思いに苛まれることにもなった。身心が弱ったがゆえの懺悔モードとでもいうべきもので、我ながら殊勝な性格をしているものです。
「体調一つで、これほどまでに世界との関わりが、その可能性が減ってしまう!」
普段は当たり前にすぎることとして見過ごしていたのだろう、自身の愚かさを心底悔いる時間を強いられた。
「そうか私は、発心修行に求められるものの中で、健康という条件が全く見えていなかったのだ」などと、思いもよらない考えをした。

身心のコンディションという影響力が甚大である事実を、忘れていた訳ではない。病床の人間でも大きな難なく発心修行できる、などと思ったことはない。しかし突然こんな考えをするということは、言い逃れしようがない見通しの甘さがあったのだ。身心の状態というものは、これほどまでに、他のどんな条件にもまさる影響を持つのだなぁ、と改めて思ったことです。あたりまえのことを聞いている思いでしょうが、みなさんも坐禅をするなら、まずはできる限り健康になりましょう。そして何が健康なのかも坐禅を通して見つけてゆきましょうね。


さて、この懺悔のおかげさまで、いまだに想像力の射程について考えています。
自身の想像が全く届かない世界には、明らかな断絶を思わざるを得ない。途方もない手の届かなさがある。全くの無意識裏に、まるで無かったものとされている。しかし、想像力の射程、というときに考えることは、その届くか届かないか、ギリギリの範囲についてです。白日の下でもなく暗黒の中でもない、そのぼんやりとした暗がりに立ち入ることは、我々人間にとって、とてつもない勇気が必要なのだ。そう感じました。

私が生まれ育った土壌には、それがまるで最もあたりまえのことであるかのように、反知性主義的な価値規範が存在していました。
よく聞く話ではあるけれど、鬼ごっこの代わりに塾に行くやつは衆目の中で馬鹿にされたし、仮に本を読んだり勉強ができる誰かが評価されるとすれば、まず肉体的な優越や広い人脈などが示されなければならなかった。体育が不得意で、人づきあいも苦手な場合には、いくら勉強ができても、むしろできればできるほどに虐げられるような環境だったと思う。馬鹿で正直、裏表のない誠実さ、それこそが人格のもっとも優れた美点として考えられていた。自称進学校の高校に入学した後も、その気配を色濃く残した人間が私自身を含めて数多くいた。
勉強して大学へ行くなど、愚かなやつらの、「頭の悪い」選択肢であるという主張は、本当に当然のことだといわんばかりに、あらためて言及されるまでもありませんでした。

想像力の射程がひそかにのびる、その暗がりの周辺には、目を逸らしがたいものがある。自身の育んできた想像力が、その生態系ごと生まれ変わってしまう、それを予期しているかのような、魅惑と恐怖が混在している。
当然ながら人は、魅せられた方向にばかり進んでゆく。そして都合の良い想像力生態系を作り上げてゆくけれど、だからといって、それに恐怖が伴わないということはない。また反対に、恐ろしい感触のため、想像力の射程に壁を設けてしまう場合にも、そのほのかな魅力に実は気がついているはずだ。
ふとした時に我々は、あちらは禁忌の地だと、恐怖を忌避するあまり触れることを固く拒む格好になっている。あそこは呪われたものだと自身を納得させ続け、その頑固な信条を握りしめ、その暗がりにいる他者に遠慮なく害意をむけてしまう。
よく見えさえすれば、または全く見えなければ、石を投げることもないでしょう。しかし、うっすらと見える影に恐怖を感じたならば、石を投げなければならないと、どうやら我々は元より決められている。わずかな魅力をその影に見出しているのだと正直に認めることさえ、ほとんどの場合ないだろう。

想像してみれば、少年時代の彼らは、なによりもまず、怖かったのだ。目の前にありありと見える世界の価値を差し置いて、自身の理解できない「勉強」というものを優先する行為も、その人格も。それは彼らが想像しうる、既存の価値への冒涜であり、侵略に他ありませんでした。
みんなが必死になって人と仲良く遊び、人生の喜びや苦しみを、なんとかうまく共有してゆこうと苦心している。大人だって大変な艱難辛苦を、なんといっても彼らはまだ子供だった。それに見向きもされないようであることに、恐怖と嫌悪を抱いてしまうのも当然というべきだ。そして、彼らが「石を投げ」たのは、その暗がりから目を離せなかったという事実の裏付けでもある。人間は愚かです。好きな異性にだって石を投げるのだ。


現在の私にとって、当時の原始的な少年たちが見ていた世界は、すでに想像力の射程その限界にあります。
現在の交友関係には、昔からの友人も、記憶にあるような反知性主義的態度をとる人間はいなくなってしまった。私たちが大人になったこともあるだろうが、社会が変化したからでもある。
勘違いならば良いのだが、そんな社会で「理性的」な人間たちが口をそろえる言葉の中には、原始的な少年達とまるで変わることのない、怯えと憧れを感じる。そう思うことが、最近は多くなった。

ネット上で文章などを読む皆さま方におかれましては、啓蒙主義的に野蛮人を侮蔑する向きの存在には、解説する余地もないほどの見覚えがあることと思う。たとえば「いじり」問題についての態度などはいかがでしょう。今となってはご存知の通り、いじめやハラスメントについての問題意識は大きく、少なくとも公の場で起こってはならないことだとされています。
不適切だといわれてしまえば議論の余地なき現在では、そんなことが我々の世界に、そもそも必要のなかったことだというふりで、それが事実となるまで過ごしてゆくのでしょう。しかしまぁ、なんと言えばいいのか、私も既に限界を迎えた想像力の射程を持つ身として、恐れながら記憶ばかりを手綱に申し上げれば、彼らにとっての「いじり」というものは、他者を仲間に入れるための、いわば包摂の営為として機能していた側面が多分にあった。そこには現在の私からでは、もはや想像もつかない、価値の多様性が確かに輝いていたのだ。
よくわからない他者をよくわからないままに受容しようとする徳性が間違いなく存在していた。他者を「理解」するべき理性的な判断を、時間をかけて行うまでもなかった。彼らを野蛮人だと蔑むのは自由だが、啓蒙主義者が全くの親切心から他者に理を説く時、全くの親切心から他者をいじる原始人たちの功罪が、どう違うというのだろうか。
石を投げるのはやめてほしいので申し上げますが、なにも私は、「あなたには適切な『いじり』がなんであるのか、十分学べるほどに良い友達がいなかったのでしょう」などと、本音を主張したいわけではありません。社会が向く方向を変えたいと思う気もあまりしない。

ただし、これははっきりと言うべきことですが、想像力の射程について、そこに漂う恐怖と魅力に対しては、正直に向き合う必要があります。少なくとも自分自身のそれに対しては、他でもないあなたの人生の為に、いつか真っ向勝負をしなければならない時が必ず来る。ほとんどの人間が、たとえば死を想像するだけで石を握りこんでいるものです。


なにはともあれとして、坐禅の持つこれらの消災功徳は本当に大きいものだと、改めて感じたことでした。「想像」の彼岸をめざして、その射程をくまなく逍遥させられる、実践過程の福利は広く知られるべきと思っています。
あなた自身が丹精込めて作り上げてきたところの、その暗がりへの恐怖と魅惑、そして他者へだけでなく自分自身に対して投げつづけている石の存在。それらの問題に、我々が本質的に目を向けるためには、どうするべきでしょうか。
おそらく世間を走り回ってできることはほとんどありません。それこそ黙って坐る以外に、どうしようもないと思いませんか。
これは無力が故のあきらめのことではなく、黙って坐りはじめることの能動的な価値をいっています。

いや、そういえば想像力とは、己と他者を等しく照らしているように見えます。
だとしたら、まずは他者に石を投げることなく歩み寄る勇気さえあればいい。その結果広がる射程によって、人間は自分自身についてもまた、より多くを見ることができる。そんな修行も悪くないでしょうから、坐ることが難しい方々は、ぜひどうぞ。人にやさしく。自分にもやさしく。
坐禅は坐らなくてもできる、という人だって、そんなに私は嫌いじゃありませんよ🙆‍♂️

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