遊心

坐禅ばかりしてる坊主。会ったことがない人が読んでもあんまり利益がない。会いに来てくれよな。 主にXにいます↓

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最近の記事

経行「考えない」とは何か

「坐禅中に雑念が多いです。考えなくするにはどうしたらいいですか?」 この質問に何百回答えてきたことでしょうか、今後の手間も考えて、いったん文章にしておこうと思います。 この質問は難しい。当人の想定している「思考」と、目指している「無念無想」めいたものが、一体どのようなものか、こちらから全然わからないからだ。 たとえば「考え」の範囲を、高度な概念操作を伴う抽象的思考とすれば、それは確かに坐禅中に取り組むべき課題ではない。逆に、「かゆい」「気持ちがいい」「おなかが減った」などで

    • 好きな服を着ろ

      今住んでいる場所には、庭があり、風呂あがりに涼むなどして優雅に過ごしている。初夏にしては、ちょっと暑すぎるけれど、気持ちの良い季節です。 肌を撫でる風の心地よさを感じつつ、ふとしたことですが、「他人に見られていれば、これはできないことだな」と、自身の下着姿に意識がゆく。 「裸で風を感じることを、咎められてよい人間など、元々はいなかったはずなのに。誰にだって好きに服を着させろよな。」と、ふいに、初めてそれを考えた歳のことまでを思いだしました。 アルバイトを始めた15の歳から、

      • 想像力の射程

        年末年始の予定を終えると、怒涛のお茶会つづきで、とうとう3月になってしまいました。 (と書いた文を編集しているのですが、まさかもうすぐ5月になろうとしているとは。絶対になにかがおかしい。) その忙しい中、このあいだのこと、ひどい食あたりを起こして、まともに起きあがれなくなってしまった。 長いこと忘れていた病床というものを、まざまざと感じさせられた数日間でした。 人は、自分が想像できる範囲ばかりを、都合よく見ているものだ。その視界の外部を想像するような力を持つことが根本的に

        • 尾崎豊の話

          「人は1◯歳の時に聴いていた曲を聴き続ける」と、サブスクリプションの音楽配信が一般的になって、しばらくしてから耳にするようになった。これは確かにそうだろう。自身をふりかえって言い訳のできない思いがします。 私の10代は、それこそ、10になってほどなくして、初めて聴くこととなったアルバムから大学に入るまでの間、常に尾崎豊の曲がプレイリストにありました。我ながら、なんとまぁ夢中になったものだと感心するほどです。中二病が早かったので、ポータブルのCDプレイヤーを持参して鬼ごっこの

          供養

          人に会って話すことばかりで時が過ぎてゆく。身に余る光栄と感じているのみで、いつでも気づかぬ間に別れの時が訪れる。「長生きしてくれねぇかな」と衝動的な思いを抱く。また同じように喜びが得られることに心底から期待しているのです。そんな卑しい心根が嫌いになれないとはいえ、人に長生きを望むなどという痴れ者にだけはなりたくない。 月並みでつまらない話ですが、人が死ぬのは唐突だ。去年は二人の友人が亡くなった。 何の兆候すらも感じられなかったことには可笑しくなってしまうほどでした。はじめの

          知識に坐禅をあてはめないで

          覚えているかぎりの幼い頃から、強烈な性善説を採用していた。「人はみな“好き”にすればいい」と心の底から思っていたし、今でもほとんどのところ、そう考えています。もちろん、血で血を洗う弱肉強食をしようぜ!という話ではない。 人を傷つければ同じく自分もまた傷つくことなど、当然のなりゆきとして想像がつく。そのため加害を控えることになる。人を利すれば自ずと自身も幸福に思うだろう。おのずから利他的になるはずだ。“好き”にするならば、必然的に自他共に利するほかないではないか。と、今の私が

          知識に坐禅をあてはめないで

          Audibleが最高だという話(嘘)

          つとに感じていたことではあったが、私は音声をとても重んじているらしい。情報のインプットにおいて文字よりも音声が好ましいことは知っていた。これについては自分がそういう特性なのだと思っていたのみで、なぜそうなっているのか考えた記憶はない。 思いだしてみると、読書はともかく、文字を覚えるのが嫌いで、購入したノートなど生まれてこのかた5ページ以上も真面目に書いたことがない。同じ文字を覚えるならば教科書をそのまま覚えればいいと思っていたせいです。おかげで受験勉強では途方にくれたのですが

          Audibleが最高だという話(嘘)

          悟らない努力

          みなさん「さとり」は好きですか? なんだかすごいと思うし、「さとり」を語る人の中にはなにやらとてつもない確信があるみたいだし、彼らの言葉には少なからず魅力を感じる、こともあるでしょう。 私は「さとり」という言葉が嫌いで、その言葉を用いたコミュニケーションは避ける事が多い。そのことを知っている周囲の人も「さとり」について面と向かって聞いてくることは少ない。お気づかい嬉しいです。 とはいえ、よくよく話を伺ってみると、やはりその根源は「さとり」についての興味と期待で溢れている事が

          悟らない努力

          人は坐るまでが9割

          夏を忙しくやっているせいで、いつのまにか九月であった。 話したいことや書きたいことはたくさんあるのに、やらなきゃいけないことに追われてままならない、という現状は、ちょっと前なら考えられないことでしたから喜ばしいものです。 さて、最近よくするお話ですが、人を呼んだり会を開いたりして坐禅の機会を作っているのは、私自身がそうでもしなければ坐禅をする気にならないからです。 いつも偉そうなことばかり言っているせいで誤解されますけども、私はいまだに坐禅を喜び勇んでするようにはなってい

          人は坐るまでが9割

          記憶をとどめろ

          坐禅するときには、あっちこっちからいろんな思いがわく。それを片っ端からちぎっては投げ×2するもんだから、いざ立ち上がったら一つも覚えてない。さすがに10年以上それをやってると手癖がつくのか日々の生活さえまともに記憶に残らないことが多くなってきた。 修道上は好ましいことと感じているんですけど、こりゃあ流石に人としてよくないこともありそうだという気がしてくる。そこで対策というわけではないがまとまった文章を書く機会を増やそうと思う。何を言っているんだこいつはという気持ちもわかるん

          記憶をとどめろ

          文字を書こう

          諸般の事情と気分によってnote書く機会ふやすと思います。 最近は坐禅会や色々な機会で人と会って話ができることにかまけてしまい、ネット活動といえばたまのTwitterばかりで、すっかり隠密行動専門になってしまった。 一時期よりも様々な人とたくさん話をする機会が増えて何よりなのですが、それで満足しきってしまうのももったいないですし、せめて気楽な形で文章にしておこうとおもう。 元来性分としては恥知らずなので、価値ある情報を整えた文章で届ける気は全然ないのですが、人に読んでも

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