見出し画像

経行「考えない」とは何か

「坐禅中に雑念が多いです。考えなくするにはどうしたらいいですか?」
この質問に何百回答えてきたことでしょうか、今後の手間も考えて、いったん文章にしておこうと思います。

この質問は難しい。当人の想定している「思考」と、目指している「無念無想」めいたものが、一体どのようなものか、こちらから全然わからないからだ。
たとえば「考え」の範囲を、高度な概念操作を伴う抽象的思考とすれば、それは確かに坐禅中に取り組むべき課題ではない。逆に、「かゆい」「気持ちがいい」「おなかが減った」などであれば、その程度の瞬時に済んでしまう概念把捉はいくらでもあり得るものと思う。
そもそも、「考え」「思考」と一般に人が呼ぶものは、感覚と概念操作の混ぜ合わせです。先の例でいえば、前者は感覚1割/概念操作9割、後者は感覚9割/概念操作1割くらいじゃないでしょうか。「無念無想」の語感に惹かれて、「考えなく」しようとばかり努めた結果、感じることさえもできなくなってゆくと、坐禅はとても難しくなってしまう。
さて、冒頭の質問について、このところ私が主に伝える返答は、「経行がちゃんとできているならば、その程度の思考は気にしなくてもよいと思っている」です。

経行(きんひん)とは、「歩行禅」「walking meditation」などとも呼ばれ、主に坐禅と坐禅の合間に10~15分程度行う緩慢な歩行のことだ。成立はよく知らないし、詳細な解説などあまりないので、現在伝わる形から考察するしかない部分は多い。
確かであるのは「一息半趺」と呼ばれる、「ひと息で趺(つま先からかかとまでの長さ)半分」歩を進めることくらいだ。それにしても歩の進め方に諸説ある。
それについてはどうでもいいとして、個人的に重視しているのは、以下の記述だ。

傍より之を観見せば、只一処に立つが如し。

宝鏡記

而して経行の法は、一息恒に半歩なり。行くも亦、行かざるが如く、寂静にして動かず。

坐禅用心記

この記述からは、経行中の動きに緩急はない、ということがうかがえる。
よくある下手な経行の例を出せば、一歩進んでは止まり、思い出したかのようにまた一歩「ペタン」と歩を進める、ペンギンのような歩き方だ。静止時と動作時で必ず感覚が途切れてしまうせいか、歩を進めるのを忘れて止まり続けていたり、歩を進めてばかりで煽り経行をしたりする。前後の人間とは、なるべく等間隔で経行することが望ましい。ある一つの思考や感覚のみに集中するあまり、周囲との距離感が見えなくなってしまうケースが大変多い。
緩急がないとは、つまり動作がシームレスに行われているということです。ほとんど止まって見えるほどの動作で、常に動きつづけていることが要求されていると解釈できます。それは、感覚の間断を許さないということでもあるでしょう。常に今の感覚に意識を置き続け、周囲の状況もよく知覚しつつ、着実に歩を進めなければならない。ただ皆と等間隔でゆっくり歩く、というだけの簡単なことが驚くほど難しいのです。

今でも思い出すが、私の師匠はことあるたびに、黒板に経行経路の畳の数を図式して、「〇畳分の経路を〇人で経行するならば、1人あたり0.〇〇畳のスペースとなるはず。」と説明してくれたものだ。おそらく、師匠が指摘したかった点は、途切れなく「今」を歩むことと、それが出来ないからこその煽り/煽られ経行への注意だと思う。しかし参禅者の中には、「現在の参禅者数から割り出される経行スペースは〇.〇〇畳!」とドヤ顔する人がいたのは未だに面白い。そういうことじゃない。

やってみればわかることですが、経行を上記のような形で丁寧に行うならば、感覚を忘れて思考をめぐらす時間は大きく減るはずです。左足のかかとから重心が移動してゆき、それと並行して右足が浮くのに合わせ、片足での重心移動に精力しなければならない。常に移動する重心にあわせて身体全体を調節する工夫は、その身体を忘れて思考することを許しません。ともすれば、ただの「足休め」と思われがちな経行には、実はこのような功利があると感じています。

スポーツ経験のある人ならば想像できると思うが、その競技のここぞという場面で必要とされる意識状態は、往々にして思考の介在を許さない。野球の打者がミートを狙い、サッカーのキーパーがPKを、陸上選手がピストルを待つ時、誰しも「考え」などしていないだろう。「考え」によって適切な動作ができなくなることを、「気が散っている」と呼ぶことも一般的だ。
坐禅/経行中にしても、それに勝るとも劣らない、ある程度の緊張感を持ってやってほしいのだ。上記の例のような瞬時の集中と違って、坐禅は長時間にわたる、ある種の緊張の持続を要する。坐禅初心者が想像する「緊張」を勘定すると、その持続は地獄のような注力が必要だと恐れおののくことになるかもしれない。そのイメージはスポーツの例のように、息を呑むような緊張感だろう。しかし、実際のところ、坐禅に要する緊張感、瞬間瞬間移り変わる感覚への注視自体はその類の緊張とは違う。弛緩と緊張を「坐禅」という身体の形に合わせて適切に調整したものだ。坐禅/経行における成果の一つは、適切で持続的な(息をするような)緊張感のもと感覚に指揮を全く譲ってしまって、思考と解釈を介在させずに行為へとつなぐことができる意識状態の認得だ。
初心者が、経行を「一歩」ずつしか感覚できないことに比べ、熟練すれば「一歩」の間に何千万回、おそらくそれ以上の感覚があることに気がつくようになる。それと同じように、坐禅を、「一炷」ずつで考えてしまう我々は、その間にどれほど無数の感覚的契機があることか想像すらできていないと思うべきだ。
歩くだけ、坐るだけのことでいい。しかし、こと「禅」の名の下にこれを行うならば、その困難は想像に難くないだろう。一応言っておくが、面白そうだと思ってほしい。

語弊を恐れずに表現すれば、「雑念がある」という状態は、「“今”の情報量が少なく、その他の情報量に慰められている」状態である。いわゆる「思考」は必ず過去の記憶と未来への予期に根差しており、それが誘引される原因は、“今”の不満足だ。“今ここ”の満たされなさから、過去や未来をかっさらって慰めを探すのが人間である、とは仏教の根本的な洞察だと思う。
“今ここ”が満たされている人間は、誰も過去や未来に依拠する「思考」を必要としない。この事実は、ご自身で思い起こせばわかることですね。「プロジェクト成功時」「富士山頭頂の御来光」「サウナのととのい」。いずれも、満たされた“今ここ”とは概念操作など許さずに感覚するべきものです。意味づけしてしまうことを、なぜだかもったいなく感じるような瞬間の経験は誰にでもあることだと思います。(※ここでは「今ここで絶対に私は満たされるはず」だと信じていること自体も重要な点ですが、扱いません。)
坐りながら“今”を救うために、極度の緊張や過度な営為は必要がない。ましてや、思考において過去や未来を動員してまで言い訳を探す必要など無いはずです。にもかかわらず、いつも不安に駆られる我々は、どうしても過去や未来を参照して“今”の保証を確認しようとします。どこか他の地点から“今”にお墨付きをもらわなければ不安で不安で仕方がないから、心は常にあれやこれやと騒ぎ立てる仕事を任されています。その慣れ性で、坐禅中でさえサボらずに働いてしまう。
我々は“今”が“今”自体として承認されるまで、坐らなければいけません。信じられないかもしれませんが、他に飾り立てられることなく、目を向けられる“今”には膨大な情報量があります。その情報量が、過去や未来の情報量を超えた時、つまりそれを自分自身が許した時に、思考は徐々に感覚に置き換わってゆくのだと思います。

ここまで読むと、「たったの一歩、数秒の間に何千万回など、感覚があるわけない」といぶかしむ向きも当然あるかもしれません。しかし、考えてみてください。秒針を聞きながら坐禅をすれば、あなたは容易に一秒30回ほど数を数えることができるでしょう。それも音声で「いち、に、さん、し、……」と思い浮かべながら。高速で動くカウントメーターを想像してみれば、より早く、秒針が鳴る間に100回ほども数えられるかもしれません。
たとえば、これが概念操作の早さです。感覚の速さはそれとは比べ物にならないはずです。秒針が鳴り、再び鳴るまでの間、一体どれだけの感覚が更新されるでしょうか。

上記した「ペンギン経行」は、いわば五秒に一度しか更新されないライブカメラを見ているようなもので、そこで得られる“今”の情報は薄弱だ。“今ここ”の情報量を増やすにはどうすればいいのか。言うまでもないことですが、更新頻度を上げるしかありません。
集中的に更新頻度を上げさせられるスポーツの例は理解しやすいものだ。きっと60fpsどころではすまない。(そういえば普段の知覚でさえ、60fpsを「ヌルヌル」30fpsを「カクカク」だと見分けることができる!)
おそらく、経行もそのような位置づけで、“今ここ”の情報量を無限に上げてゆくべき度量を有している。すくなくとも坐禅に比べて動きがあり、日常的な行為と結びつけやすくもある。踵からつま先に重心が動くまでに一体いくつの感覚があるだろうか。

坐禅というものは、ほとんどの初心者にとって全く取り付く島のない奇怪なものだと思います。しかし、このような経行との関連で課題を持つならば、それほど暗中模索の不愉快には悩まずに行ずることができるんじゃないですかね。
「考えない」について、経行を例にとって想像してもらう試みは我ながらよいアイデアだと思っている。思えば師匠も経行には、とてつもなくうるさかったが、やはり故あることなんだなぁ、と思いますね。一応いっておくと、畳を人数で割る癖ができたのはあまり意味がありませんでした。だから算数が苦手でも経行を怖がらないでくださいね。

あと最後に重要なことを付け加えれば、経行は坐禅と坐禅の間に行うことがほとんどですので、摂心に来ないとする機会があまりありませんよね?
待っていますよ。


いいなと思ったら応援しよう!