悟らない努力
みなさん「さとり」は好きですか?
なんだかすごいと思うし、「さとり」を語る人の中にはなにやらとてつもない確信があるみたいだし、彼らの言葉には少なからず魅力を感じる、こともあるでしょう。
私は「さとり」という言葉が嫌いで、その言葉を用いたコミュニケーションは避ける事が多い。そのことを知っている周囲の人も「さとり」について面と向かって聞いてくることは少ない。お気づかい嬉しいです。
とはいえ、よくよく話を伺ってみると、やはりその根源は「さとり」についての興味と期待で溢れている事が少なくないと感じる。
そんな時に私はいつも、「おそらくある文脈の中では、得ようとするならば驚くほど簡単に『悟っ』てしまうことができます。それには一定の価値がある事を認めてはいますが、それは大変にもったいないことだとも考えています。むしろゆっくり時間をかけて紆余曲折した後に思い返して、あの時に急いで『悟っ』てしまわなくてよかったな、と感じられることがなにより大事なことだと思いますよ。」と申し上げることにしている。
これはもちろん本心からの言葉だが、何よりも時代に仏教が影響してゆくためには、どうしても必要なことであるとの打算的な思いも強い。
同時に、この話題の時には必ず付け加えることで、「ただ、何はどうあれ『悟っ』てしまう事が当人にとって他に代替のきかない価値となる事は間違いありません。」という指摘も忘れないようにしている。
私が嫌いなのは「さとり」という言葉の使われ方とその現場に巻き込まれる事であって、「さとり」を追い求める心やそれを伝えようという思い自体に否定的な感情は全くない。むしろその当事者たちこそ数少ない熱心な実践者だとして尊敬の思いを強く持っている。
前置きはここまでとしましょう。
さて、どうしても「さとり」については誰もが途端にナイーブ過ぎると言わざるを得ない態度をとりがちです。これには語る側にも聞く側にも同じく反省の余地があると思う。
「さとり」を「月」とした指月の譬えはご存知の方が多いと思います。人の話をいくら聞いても、その指す先を見ようとしなければ月は見えない。この譬え話はあまりに簡単なので安易なとらえ方をしやすいものです。
実際をよくよく考えてみれば、「さとり」を聞く側(以下「学人」)が「月」を見たこともないのは当然として、「さとり」を語る者(以下「指導者」)の「指」がどの位置からどちらを指しているのかも見えてはいないはずです。一方、指導者からも、学人が一体どこから自身の指を眺めているのか想像もつかない状態からスタートしているはずです。
人間の生活が単調であった時代ならばいざ知らず、多様性が叫ばれる現代である。共通の文化や教養など、知識としては増えたのかもしれない。だが私たちはそれ以上に差異を多く持つようになったのだ。「指月」がそれほど簡単に成功するとはとても思えない。
まず学人についてを話せば、そもそも彼ら自身が全く見当もつかない「さとり」というものを、赤の他人から聞き出すことが気軽に成功するはずがない、という視点が欠落している場合が多い。現場で実際に会話する際であればまだしも、インターネット上で「さとり」についての言葉を交わすことのみで誰は良し彼は悪しなどと、そもそもからして何がしたいのかわかったもんじゃない。
現代の我々にとって、単なる知識や情報を調べるときの癖なのだろうか、調べ物をすれば即座に専門家による客観的な立場からの意見を数多く参照できる状況に慣れ過ぎてしまっている。それを当然と思うがゆえに生身の人間から何かを学ぶことの繊細さに盲目であることには気がつけない。そもそも「さとり」は言葉や記号のみで伝えられるものであるはずがなく、どこの誰とも知らない人間が話し合ってその共通理解を得る事はできません。
あなたがどういった人物で、「さとり」に対してどのような理解をしているのか、その程度の自己開示すらなしには、そもそも問い合わせ先の応答がまともなものであるかどうかの判断すら出来るはずがないと思ったほうがよいです。そのような最低限のコミュニケーションを経て初めて、「さとり」を語る人物について、その人となりや立場を吟味する資格があるといえるのではないでしょうか。彼ら指導者に対して知識上最低限の信頼がおけるのを当然とすれば、実際には、このような人間関係の構築からでしか「さとり」に対しての具体的なアプローチは不可能だと思います。
次に指導者ですが、上のような勘違いを引き起こす原因は彼らにもあると言わざるを得ません。これは指導的立場の人間のみならず、仏教関係者一般にも当然いえることですから、私がブーメランで致命傷を負わぬようにしないといけない。
これは自分の経験などふりかえった上での想像にすぎませんが、学人のとりがちな仏教指導者に対する態度の大本には、誤解とも正解とも言えない指導者に対しての期待がある気がしています。それが「真実のさとり」であるならば、その体現者たるもの時と場所を選ばず、甚だしくは対する人間の性質さえ問わずに、衆生を摂化できてあたりまえだとする印象です。
指導者がそのような形で見られること自体はある意味では当然のことです。しかし、ここでは各教義のもつ神仏の役割と、肉身としての指導者の役割とを明確に分けるべきだと思う。そしてそれを教えるのは指導者側の責任でもある。
はっきりと言ってしまえば、「さとり」の伝授などといった特殊な出来事が人間の仕事だけで可能になるとする見方はあまりに貧しいものだ。そのような事態を可能とした当人たちですら、彼らの行為のみで成されたと感じることなどないに違いない。そこには必ず人間の行いを超えた冥助が介在していたはずだ。にもかかわらず、「真実のさとり」を体現した指導者であるならば、あらゆる文脈にとらわれることなく学人の「さとり」につながる真理を現わせるはずだ、と、どうしても我々は考え、期待してしまいます。あまりにありふれたこの態度は、人間だけでその仕事をすべて成そうとする、ある種の越権行為を容認すること以外の何ものでもありません。もちろん学人の勘違いとして挙げた、まるで知識人にものを教わるかのような、インターネットの検索窓に問うかのような態度の問題もある。ネットでよく見る「本当に頭のいい人はバカにもわかるように説明できるはずだ」といったような心理が働いてもいそうだ。だが、それを「違うのだ」と言うべきは、ほかならぬ仏教指導者ではなかったか。
古来「衆生説化」の理想はいうまでもなく神仏の御業によるものが大きく、肉身としての指導者はたとえその権化としての崇拝を受けようとも、働きかけとしての役割を混同することがあってはならなかったはずだ。時と場を選ぶことなく、人の性質すら問うことのない救済は、あくまで神仏の成せる業だった。
「宗教」と「信仰」という言葉が使いづらくなってしまった現代においては、この問題はことさら大きなものになっているんじゃないかと思います。私自身が一般と比べて決して信仰に篤い人間ではないだけに、この事情は仏教実践上のもっとも大きな足かせでした。現在でも人に誇れるほどの信仰心を自覚しているわけではないが、良くも悪くも、分をわきまえるようになったと思っています。
「指月の譬え」に戻れば、どれだけ優れた指導者であっても「指」自体を「月」そのものにすることはできないはずだ。月の光を遍く照らすのは神仏の業に他ならない。人を選ぶことのない救済はその超越性によってのみ可能となるべきだ。であるからこそ、一方で、肉身としての宗教者に求められるのが文脈の利用や条件の設定なのだと考えている。「指」を見る/見せる、のはあくまで人の業を尽くして実現するべき仕事でなければならない。お互いにどこにいるのかも判然としない距離からその位置をしらせ合い、互いに理解しあう努力が不可欠だ。その末に初めて光源自体の恩恵にあずかるのでなければならない。「月」が普遍であればこそ、「指」にはあらゆる条件を適時実現させる仕事がある。
我々のおちいりやすい問題は、「指」が「月」そのものになり得るという誤解から、指導者が文脈や条件を不問としつつ「さとり」の運用、伝達が可能であるかのような態度をとることです。同時にそのような指導者像を期待することも含めて、これは指導者/学人双方の困難となります。具体的にはどこの誰に対しても同じ形の摂化を試みる/期待することなどになるでしょう。指導者が誰に対しても一辺倒な語り口となるのも褒められたものではないが、学人に至っては「さとり」を学ぶ先がもはや生身の人間である必要すらなくなってしまう。
当然「月」の超越性によって、もはや肉身の「指」すら必要としない場合もあり得ることにはなるんですよ。優れた知能を持った人間であれば書籍などを通じた学習のみで、ある種の「さとり」を得ることも可能だし、それを文字に残すことも可能だとは思います。だがしかし、私個人はあくまで肉身の出会いを重視する道元禅師の「面授」という思想を重視している。これは、その「さとり」伝達可能性のみによってそう考えているのではない。つまり、直接人間同士が合って対話したほうが「さとり」易いなどとだけ考えているわけではない。むしろ冒頭で白状した打算的な部分が少なくない。
これには私情も含まれるために、数えてしまえば理由は多くあって、すべてを書く余裕はない。ただし、なんといっても指導者/学人いずれか一方の匙加減のみで「さとり」に到達できるとしてしまえば、指導者側はこれまで以上に一辺倒な語り方をしてゆくことになるだろう。さらに言えばその一辺倒な語り方で済むのであればもはや対人に語る必要などなく、もっぱら文章など固定的な形で仕事をしようと思うでしょう。彼らの法を継ぐのは可能性上の誰かであって、その点では肉身同士のコミュニケーションよりも期待が持てるのかもしれない。もちろん同じことを学人が反対側で行うことになる。仏教実践に生身の人間が持つ役割は自分自身の他に必要がなくなってしまう、といえば言い過ぎではあるが、そうなってゆく可能性を考えると十分に恐ろしい成り行きに感じます。ありていにいえば、指導者も、学人も、特別に生身の人間に会いにゆく気がなくなってしまう。当然だれもが楽なほうから始めるので。そうして、それで済んでしまう者、飽きてしまう者が大半であって、実際に現代では、生身の人間と時間をかけて話すことで「さとり」に対しての文脈を共有しようなどと考えることは、ほとんどなくなっているのも事実です。
当然ここには、対面でのコミュニケーションを軽視しすぎるという問題があります。彼が何を言っているのか、それを理解するために必要な努力は難しい問題であればあるほど大きなものになるはずです。特にそれが単なる知的理解のみならず、他に感得すべき事柄が含まれているようであればなおさらだ。禅の文脈ではただでさえ「歴代当事者コミュニケーション集」ともいうべき祖師録が膨大に残されている。どれだけそれが現場の諸条件に依存したコミュニケーションであったかのあかしでもあるその歴史は、再び今この場で、それぞれの諸条件をもつ肉身によって繰り返されなければならないはずです。
さて、題名に掲げた「悟らない努力」についてです。「悟っ」てしまうまでに、特定のスムーズな条件、文脈しか知らずして運用、伝達を試みる場合、一辺倒な語り口となるのは免れないと思っています。決して悪いことだけではないとはいえ、上の私情も入った理由から、個人的にはおすすめをしていません。
むしろ「さとり」という言葉への態度は、いくら自身が「悟っ」たように思えても/思えなくても、異なる文脈での視点を集めているとでも思って適切な距離を保てるようになる方がよいと思っています。今回は「指導者」と「学人」という書き方になりましたが、異なる文脈では誰もがいずれにもなり得ると思っています。一人の「ホントウの指導者/学人」を現場であれ歴史上であれ、探し続けるよりも、とりあえずいろいろな人とお話ししてゆくことの利点もここにあります。
そしてなにより、あなたがもしも「さとる」ことがあったとして、その実現があなたや誰か人間の力のみによって成されてしまうのであれば、そのような「さとり」を私は認めたくありません。たとえ誰が「さとる」ことになったとしても必ず、少なくとも彼ら自身にとっては、仏による冥助があって初めて成されたものだと言ってほしいからです。そしてできることならば、その冥助はあなた個人が授るだけのものでなく、生身の人間を通じて得るものであってほしいとも思います。超越を恃まず人の力だけで実践を行う時、我々はもはや坐禅も瞑想も満足にできることのない世界に住まなければならない。またそのような形で個人の力を過信するならば、その肉身の持つ能力を活用することも、その責任を果たすことも、十分にできなくなるかもしれない。個人的にそんな世界へ向かう気にはなれません。
このような客観的には極めて私的な理由から、私は「悟らない努力」といってしまってもいいような「踏ん張り」があってほしい、と思っています。何でもかんでもすぐにわかってしまうことは、特に私の知る坐禅の文脈において善い事とはいえません。
「さとり」によるある種の転換は個人の人生にとって大きいものとなり得るのは確かですが、坐禅や瞑想によって得られる利益は決してその瞬間だけではありません。坐禅をはじめたその時からずっと得ていた利益というものに気が付く事の方が個人的にはよほど重要ですし、いまこの場の坐禅でも変わらず得られることとなるそれらに目を向け続けることを「真実の悟り」と呼びたいと思っています。(呼ぶとは言ってない)
みんな勉強はしてほしいですが、なによりも人と一緒に坐っていきましょうね。