「チベットのモーツァルト」における別の笑い

赤ん坊の「アナクライズの笑い」から、この論文ははじまる。ソレルスの『H』という小説、禅僧の月夜での笑いが、ラブレー等の笑いとは違う「別の笑い」と言うのだ。

「別の笑い」は、ポジションが決められたとたんに吹き出す笑いだ。すでに構築すみの体系を批判する笑いとは違う。

混沌としながら漂い、意味もない、多様な身体の運動の中で、そこを固定化してしまう恣意的な軸、この軸を元に、意味というもの、つまり数の認識(フッサール『幾何学の起源』)も生まれてくるのだが、そのとば口に、この「別の笑い」が生じると言うのだ。

作者の中沢新一は、ジュリア・クリステヴァの「場の名前」(『ポリローグ』)を参照しながら、幼児が感じる「アナクライズの笑い」を通じて、言語と空間という表象が形成される起源の場で生じる「別の笑い」を解説する。

そんな笑いがあるんですかね。

この軸が作られる瞬間に、「原記号作用(ル・セミオティック)が生じるとか。欲動の流れを固定化する点になると言うことだが。目的論的な理性の萌芽もここに生まれる。なんだかジル・ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』の冒頭のかきっぷりのようだが。

もう一つ印象的なのは、作者がライプニッツの「モナド」について言及している点だ。モナドは作者によれば「起源における粒子」と言うことになる。分かりやすい。粒子なのだ。

ライプニッツは、モナドは部分をもたず、事物の要素となる真の原子と言っている(ライプニッツ『モナドロジー』岩波文庫、冒頭)。

赤ん坊に、点が与えられる時、それまでは、赤ん坊も無限の連続体の、言わばカオスの状態であったのだろう(ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何かを』)。そこに点が与えられ、無限の多様体は、位相的にねじれを加えられる。このれじれで「別の笑い」が出てくると言うのだが、位相的なねじれが、イマイチピンとこない。

パラドキシカルな起源の場であり、ここから意味や言語が構築される、原エクリチュールの場とあるが。ジャック・ラカンや、デリダの用語が浮かん来る。