死について~トルストイ『イワン・イリイチの死』を読んで(2)
死を覚悟すべき状況になったときに人は何をまず思うのか。もちろん人によるだろうけど、おれ自身は「寂しさと嫉妬」を感じるんじゃないかと思う。
「カイウスは人間である。人間はいつか死ぬ。したがってカイウスもいつか死ぬ」。彼にはこの三段論法が、カイウスに関する限り正しいものと思えたのだが、自分に関してはどうしてもそう思えなかった。
(※カイウスはユリウス・カエサルのこと)
ぐさりと来ますね。母親がすい臓癌(一番たちの悪い癌です)の告知を受けたときも似たようなことを思った。それまでは「癌の告知を病室で受けるというのは、TVや映画、もしくは相当特殊な人の話」という認識だったのが一気に覆される。こんなことがおれに降りかかるなんてことがあっていいのか。周囲の人間ですらそうだから、患者本人の思いは更に深いだろう。これはおそらくほとんどの癌患者とその家族に共通する感情じゃないだろうか。
と、ここまで書いてふと思った。なぜ自分はこの本を読んだり、感想を長々と書こうとしたりしているのか。おそらく「その日」に備えたいということだ。死が近いという事実とリアルに直面させられる日。そしてその後の生活。そのときに混乱したくない。基本的に計画性のない人間だが、こればっかりは自分がどう思い、ふるまうか、あらゆる可能性を事前に考えてその日を迎えたい。考えていたことと実際は違うに決まっている。決まっているが考えずにはいられない。
暗いなー。
ともあれ。
寂しさと嫉妬を感じるだろうと書いた。つまり「自分はもう『こっち側』に来てしまい、『あっち側』には戻れない」ということだ。中年や老人が感じる「若いやつらはチャラチャラしおって。あいつらは何もわかってない」あれの数億倍くらい強いのが襲ってくるということだ。
おれ自身は若い人を見て「しおって」と感じることは(あまり)ないが、『あっち』にはもう戻れないんだな、という一抹の感慨みたいなものはある。じゃ戻りたいのか、というとそういうことでもないんだけど。トシとるのはとるので悪くないとも思うし、いつまでも若くいたい、とかも思わない。だが昔できたことができなくなる、とか昔に比べて気を付けなきゃいけないことが増えたな、とか、そういうことがやはりいくつかある。だから「寂しさ」というのはなくはない。
この数億倍が襲ってくるのだ、「その日」には。何しろ、そこに存在しはじめる分断は、今のおれが感じている「『若者』対『ポスト若者』」ではなく「『生者』対『そうじゃなくなりはじめたわたし』」なのだ。このときに他者に感じる「若僧に何がわかるんだ」感はすごいだろう。生を謳歌しおって。
長くなりはじめたので、続く。