ジョン・クラカワー『荒野へ』を読んで(3)
名前と社会、みたいなことについて考えてみようと思う。
クリストファー・マッカンドレスは、大学卒業後に家族との音信を断ってしまい、アレグザンダー・スーパートランプと名乗り始める。
たいへんに恥ずかしい名前である。
この人の生き方には深く感銘を受けるが、これはダサすぎる。スーパーなtramp(放浪者)、アレグザンダーの部分はアレクサンダー大王と関係があるのだろうか。荒野生活において、この名前でいろいろと文章を書いているのだが、それらも自己陶酔的な部分が多くってちょっとな……というのはある。
しかしまあそれはいい。印象深かったのは、にっちもさっちもいかなくなって最後の最後、救出を求めるメモの署名は「本名だった」という事実だ。引用してみる。
「SOS。助けてほしい。(中略)。ぼくは独りぼっちです。(中略)。ぼくを助けてください。(中略)よろしく、クリス・マッカンドレス」
色んなことを思った。スーパートランプの敗北。敗北という言葉が悪ければ限界。「アレグザンダー・スーパートランプ」に、IDカードはない。きちんと医療機関にかかることもできない。ひとは勝手に名前を変えて、社会から完全に隔絶された生活を送る、ということはできない(もしくは相当に難しい)のだ。
例えば、落語家の人は、普通人としての名前を捨てて「三遊亭〇〇」になったり「古今亭〇〇」になったりするわけだが、それでも「三遊亭」「古今亭」、「亭」のもとにそこに固有の社会が作られている。それ以外の芸名やペンネームなどをつける職業の人たちも同じことで、同業者どうしで社会を作っていく。こういう人たちは一匹狼的な部分は多いだろうが、社会が「ない」ということはない。
自分の子どもに名前をつけたときのなんとも奇妙な感覚を覚えている。最初に子どもあてに来た手紙は役所からだった。自分が考えてつけた名前がですね、印字されてる。もちろんものすごく頭を悩まして熱心に考えた名前なんだが、こういうものは、勢いでつけるしかないものでもあり、その勢いでつけた名前が、生きて動き始めたぞという感覚。おお、おれは社会的存在みたいなものを作ってしまった、そしてこの名前は本人の相当な意思がない限り、一生変わらないものなんだ、と。
『荒野へ』では、マッカンドレスの死後、両親が彼の暮らした荒野へ行くシーンがある。自分たちのもとから突如消え、名前を(ダセエ名前に)変え、しかし最後の最後に本当の名前、自分たちがつけた名前で助けを求めた息子。「名前」ということに関して両親は一体どんなことを思ったんだろうか。
文明と社会、やはり完全にジャンプアウトすることはできないのか。どのくらいまでならアウトできるものなんだろうか。40代くらいで世を捨てた、という人の話があるなら是非読んでみたいと思う。
次回からは『イワン・イリイチの死』の感想を書こうと思う。これもすごい本だった。