死について~トルストイ『イワン・イリイチの死』を読んで(1)
「水屋の富」という落語がある。
水屋さんが富くじ(宝くじ)に当たる。当たったはいいものの、それからは周りが皆盗人に見えて、仕事では失敗ばかりするようになる。寝ていても夢の中で金を盗まれたり殺されたり。ある日、疲れ切って帰ってきたところ、金が盗まれているのに気づく。水屋さんがつぶやく。
「これで苦労がなくなった」
母が亡くなったときに同じようなことを感じた。もうこれで少なくとも、母が癌で亡くなるかもしれないという恐怖からは解放された、と。悲嘆というのはもちろん巨大だった(5年以上経ったが今もほぼ立ち直っていない)が、「恐怖」はなくなった。水屋の富と同じだ、よくできてるなあの噺は、と悲しみの中で妙に感心したのを覚えている。
死ぬ、ということに対して、昔から少し敏感だったように思う。小さい頃から偉人伝を読んでても、やたらと臨終のところばかり読んでこわくなるのが好きだった。この人はいつ、どこで、何歳で死んだのか。どんな病気で。死ぬときはどんなことを考えるのか。「もうこの歳になると死ぬのはあまりこわくなくなるよねー、そうじゃない?」とかおれの世代くらいでも言う人がいるが、結構真顔で「いや、おれは死ぬのが一番こわいです。ほんとに死にたくないです」と答えて場を微妙な空気にしたこともある。
イメージトレーニングもする。眠りに入る直前に考えるのだ。いまこの状態、意識がだんだん薄れていく、これがたぶん死だ。でも、眠りと違うのはこのまま目覚めることがないということか……。わからなすぎる、こわすぎる。
先日父が亡くなり、そんなときに出会ったのがトルストイ『イワン・イリイチの死』。これは出会うべくして、だったなと思う。四十代半ばの裁判官が不治の病を得る。人はこういうときに何を考えるのか、という非常にストレートなテーマ。この本に書いてあったこと、そして自分が考えたことを覚えておきたいということもあり、しばらくこの本の感想を書こうと思う。