ゴールデン・ランデヴー
行く春を惜しむ今日この頃、やっと冬用タイヤを脱いだ。
この地域では、冬季はスタッドレスが欠かせない。雪に見舞われなくても、路面の凍結がある。さすがにこの冬は凍結も積雪も滅多になくて、正直はき替えるだけ無駄だったけれど。
今年のゴールデンウィークは外出自粛だけれど、三年前は夫と一緒に東京まで遊びに行った。二人きりの、はじめての旅行。最大規模で開催されていたミュシャ展に行きたい、という私のわがままを夫が叶えてくれることになった。
祝日でも、図書館は開館する。連休中ずっとではないが、一日二日交替で勤務があった。開けててもそんなに人は来ないけれど、都市部から帰省した親子と祖父母とか、常連の夫婦とか、ぽつりぽつりと訪れる。今年はそんな帰省者の利用も望めないな。
そんな当番が当たった勤務後、夜八時、迎えに来てくれたツーシーターに乗り込んだ。運転席の夫は、シャワーの後のせっけんのにおいが微かにしていた。
地元のラーメン屋で夕飯を取り、高速に乗る。ここから四時間半(予定)の長距離ドライブ。仕事で疲れているはずなのに、脳は冴えわたっている。車内に流れるのは、Queen、The Carpenters、ABBA。思い思い喋ったり、口遊んだり、手を握ったり。二人とも随分と浮かれ気分だった。
夜の高速道路は、なんであんなに心が躍るのだろう。
ほぼ等間隔に並んだオレンジの光と、頭上よりももっともっと高いところから落ちている暗闇。山々の間にあちこちと現れていた街の明かりは、進むにつれて強くなり、山肌は影を顰める。
八王子に近づくにつれ、渋滞が始まった。iPhoneで道路情報を調べて、ルートを変える。それでも予約してあるビジネスホテルのチェックインに間に合わなさそうで、ハンドルを握る夫に代わって私がホテルに連絡することになった。電話しているところを見られて聞かれるのが、無性に恥ずかしかった。
「今夜から二日間宿泊の予約した、××ですけれど」
と、はじめて夫の姓を名乗る。視線の右端で口角が引き上がったのは、気のせいだろうか。
「えーと、渋滞にはまっちゃって、その、チェックイン時間に間に合いそうもないんです。大丈夫ですか?」電話の向こうで、「ああ、」とだるそうな男性の声。
「それならフロントに呼び鈴がありますから、着いたらそちらを鳴らしてください。自動ドアは開けてありますから、正面から入れます」
「かしこまりました。そうします。あと、一時間くらいで着くと思います。ご迷惑おかけしてすみません。よろしくお願いします」
電話を切ると、夫の目が笑っていた。
「『かしこまりました』って。取引先じゃないんだから」
その一言で、茹でだこのように真っ赤になった。「電話、めちゃくちゃ丁寧な言葉遣いなのな」
その指摘が恥ずかしくて、でもじゃあなんて言えばよかったんだ、あ、「わかりました」でいいのか、ああ……。何でもないことなのに、どうしようもなく恥ずかしかった。このひと相手に、私は恥ずかしがってばかりいる。
日付が変わって一時間もしたころ、ようやくホテルに着いて、そこからの東京はとても楽しかった。狭いセミダブルのベッドで身を寄せ合って眠り、男の人の腕の中ですとんと朝まで落ちたのは、はじめてだった。電車移動、昼間からのビール、夕方から閉館にかけてのミュシャ展(空いている時間帯を狙った)、想定よりも高額だった夕食のお寿司。缶ビールとつまみのビニール袋を提げて帰るホテルまでの道程。
雨は降らなかった。今年の連休も、天気だけは良いといい。
「結婚しておいて、よかったよね」
「なんで?」
「コロナで何もかも自粛自粛じゃん。きっとデートもできなくて、全然会えなくて、悶々としたと思うよ」
「ああ、確かに」
今年は、二人で過ごす膨大な時間だけが横たわっている。でも、同じ事柄に向き合うことは、二人がお互いに向き合う時間は、滅多にない。三年前の東京旅行のように、同じものに向かっていけたらいいのに。
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