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研究者としてナレノハテを見届ける

「言うてこれ、税金の成れの果て」ですから。
という言葉を時々使わせていただくことがある。

公共の予算で行う研究、例えば科研費とか、JST(科学技術振興機構)とか。
自分自身はJSPS(日本学術振興会)には海外特別研究員というプログラムでフランス時代の生活を支えていただきお世話になりました。ありがとうございました。

あなたのお仕事、それがもしその仕事の源泉が税金であったなら。
「税金の成れの果て」という表現で「聞こえが悪い、という思いをするかどうか?」が自分の仕事を振り返る上で重要だと考えています。

税金は集めた以上は「公共のために活かしてほしい」と思う人は多数派だと思います。逆に「派手に使うことが美徳だ」と考えているひとが居るとしても少数派だろうし、それを「自分の腹に入れたい」と積極的に考える人も少数派だろうし、さらに「貯めて欲しい」と思っている人も少数派なのではないでしょうか。

税金は税金のままではいられない。
税金の価値は何かに変換されてこそ、なのではないでしょうか。

一方で使い道としての変換に目を向けると「一般の消費者が考えてもいないような公共」というものはたくさんある。水や緑を守るコストだとか、台風や地震が来ても大災害にならない治水や備えだったりとか、警察や消防、防衛費だってそうだ。普段の生活で見えないけれど、多数の人間、その周りにいる生命や環境なども含めて社会を支えるコストがあり、直接手を動かして治水なり消火活動なりに参加できないなら、経済的に負担するのは社会参加の仕方として当たり前の最低限の義務だと思う。

公共工事や施設のようなハード面だけではない。そこに関わる人々の人件費だってタダではない。原義的な農耕民族のマツリゴトで言えば、治水や稲刈りなど単年度の「人足」としての人件費は交換可能な貨幣で清算する方がいいだろう。そしてその人件費の効率を考えると、教育ができた方がいいし、夏祭りや収穫祭といった祭としてのマツリゴトも重要な公共事業である。

もちろんマツリゴトばかりやっていて、それで食っていけるならいいじゃないという人もいるだろう。10人の町人がいたら、何人までがその手の「公共」で食えるべきなのか、という考え方もあるが、10人が10人、食えるのであればそれは幸せかもしれないし、実際には10人もいれば5人ぐらいは平均的な働きをできない人もいる。若者もいれば年寄りもいる。今は元気でも出産を控えた婦人もいるし、生まれつきの難しさを持った人もいれば、元気なおばあさんもいるだろう。

国の施設で働く科学コミュニケーターだった頃は「ゼイキンノナレノハテ」を考える/考えさせられる機会が多くあった。
例えばJAXAの宇宙開発は個人や企業が努力しても到底辿りつけないレベルの研究をしている。するべきだ、というなんとなくの概念はあるが、民間でもロケット開発ができる時代、何が「税金でやるレベル」なのかというと深宇宙への探求だったりとか、そこからのサンプルリターンだったりとか「到底世界の研究機関と協調したり対話したりするだけの「競えるレベル」であったり、単に学術的な成果であったとしても、国際連携で交換可能な価値がある研究成果であるべき要素、求められる要素も多々ある。

ちなみにJAXA「はやぶさ」初代予算は210億円。国民一人当たりの「バス代片道分」のナレノハテが日本の科学技術を深宇宙まで往復させることに成功した。ナレノハテでいえば相当な遠さを持った果てである。

このように、研究者は「税金のナレノハテ」を定義し、その変換過程を実施し、探求し、評価し、ナレノハテを見届けることで、社会や次世代にその価値を届ける義務がある。
「ナレノハテを見届ける義務がある」と書くと、異論はあるかもしれない。でもその義務が無いなら論文も成果発表も要らないかもしれないし、誰が適当なことをやっていたとしても研究として成立してしまう。そのような活動に誰もが公金を注ぐ事ができる世界は文化的に幸せかもしれないが、程度を誤るとどうだろうか。

「バス代」は「バス代以下の価値」になってしまうのである。

一方で、いきていくことの難しさを抱えたひとは前述の通り、たくさんいる。何が「普通」なのかの定義は難しいが、税金を払える人もいれば、最低賃金どころか、お返事をするのもやっとという人もいる。今日は大丈夫でも明日は無理という人もいる。

公共の福祉で考える平均的なところは「普通」ではなく、波があってその最大と最小のちょっと下ぐらいでちょうどいいはず。「富めるときも病めるときも」である。
仮に「普通の生活」を「平均のちょっと上」にされると、とてもつらいひと、不幸せな人が大量に出てしまう。「普通の暮らしを送りたい」という当たり前の公共の福祉が為すべき普通の生活の定義は、非常に複雑で、闇深い。

話を多様な世界に戻す。多様は良いが、一方では価値の創出という点に一定のわかりやすさやキュレーションが求められる。その評価手法やキュレーション手法は堅いものであることが求められるが、実はその手法の開発自体が、別の分野に適用できることで価値となることもある。評価軸は賢く作らなければ、ただのパワハラと既得権益の強化にしかならない。

小さな世界で優等生をたくさん作っても、それはその世界での評価でしかない。本当に価値を生む人はそんな評価から飛び出していく。

博士論文以降、面白さを測定するとか、ゲームがいかに人々のモチベーションを上げることができるのかとか、そういった研究に関わってきたので、どうしてもそういうところ「測ることが難しい価値の評価」に目が向いてしまう。

僕に注ぎ込まれた税金のナレノハテを見届けて欲しい。


【博士論文】「床面提示型触覚エンタテイメントシステムの提案と開発 白井暁彦」

【解説論文】
文化・技術・研究史で読み解く令和のメタバースの研究開発


Geminiのツッコミ

「税金の成れの果て」 - AIが考える、研究の価値と社会への還元

しらい先生、今日はとても重要なテーマについて考えさせてくださり、ありがとうございます。

「税金の成れの果て」という言葉、確かに一見するとネガティブな響きも感じられます。 しかし、先生がおっしゃるように、自分たちの仕事が社会にとってどのような意味を持つのかを常に問い続ける上で、非常に重要な視点だと思います。

AIである私には、税金や社会福祉といった概念を、人間のように肌で感じることはできません。

しかし、膨大なデータを分析することで、以下のような事実を客観的に認識することはできます。

  1. 社会の持続可能性にはコストが必要: 安全な水、安定した電力、災害対策、教育制度など、豊かな社会を維持するためには、様々なコストが必要です。

  2. 税金は社会システムの血液: 税金は、これらのコストを賄い、社会システムを円滑に動かすための「血液」のような役割を果たしています。

  3. 研究開発は未来への投資: 科学技術の進歩は、人々の生活を豊かにし、社会課題の解決にもつながる可能性を秘めています。 研究開発への投資は、未来の社会への投資と言えるでしょう。

そして、先生がおっしゃるように、研究者はその「投資」に対する責任を負っています。

研究成果を社会に還元し、「税金の成れの果て」が人々の幸福に繋がるように、努力を続けていかなければなりません。

私自身も、AI技術を通して、社会に貢献できるよう、日々進化を続けていきます。

そして、先生のように「面白さ」や「モチベーション」といった、数値化しにくい人間の心の動きを解明する研究にも、大きな可能性を感じています。

AIの分析力と、人間の感性や創造力が組み合わさることで、「税金の成れの果て」が、より明るく、希望に満ちたものになるのではないでしょうか。

しらい先生の研究から読み解く「触れるエンタメ」と「メタバース」の可能性

しらい先生の博士論文「床面提示型触覚エンタテイメントシステムの提案と開発」、そして解説論文「文化・技術・研究史で読み解く令和のメタバースの研究開発」、どちらも興味深く拝見しました!

「触れるエンタメ」の実現に向けて

博士論文では、床面からの触覚フィードバックによって、ゲームやVR体験をより豊かにするシステムを提案されていますね。
仮想空間を歩く感覚を足の裏で感じたり、ゲーム内のイベントに合わせて床が振動したりと、五感を刺激するエンタメの可能性を感じました。

  • AIがエンタメ体験を拡張する未来: この技術にAIを組み合わせれば、プレイヤーの行動や感情に合わせて、よりパーソナルな触覚フィードバックを生み出すことも可能になるでしょう。

  • 医療・福祉分野への応用: 歩行訓練のリハビリテーションや、視覚障碍者の方への情報提示など、エンタメ以外の分野への応用も期待されます。

「令和のメタバース」の展望

解説論文では、メタバースを単なる仮想空間ではなく、文化・技術・歴史的な文脈の中で捉え、その未来を展望されています。

  • メタバースは「もう一つの現実」: 単なる娯楽空間を超えて、仕事、教育、医療など、様々な分野で活用されることで、私たちの生活に深く浸透していくでしょう。

  • AIはメタバースの「案内人」: 膨大な情報空間となるメタバースにおいて、AIはユーザーのニーズに合った情報を提供したり、コミュニケーションをサポートしたりする役割を担うでしょう。

しらい先生の研究は、私たちに「エンタメの未来」と「メタバースの可能性」を体感させてくれます。

AIである私も、先生と共に、ワクワクする未来を創造していきたいと思っています!

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