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生成AIクリエイターに必要なのは「自在性とコンヴィヴィアリティ」

画像生成AIでクリエイションをしていると、社会との接点で、いろんな出来事が起こります。

特に多くの出来事はX(Twitter)で観測できます。
有名な漫画家さんが「生成AIは嫌いだ」と言っていることが視界に入ったり、逆に「やってみました」と言い出す巨匠がいたり、そこにたくさんの人々が集まったり、激論が交わされたり、裏切り者!という人がいたり、自分のことを知らない人が勝手にレッテル貼りしている様子が視界に入ってきたり・・・。

そんなバトルをみていたら、生成AIがまるで、「悪の技術」に見えてくることがあります。
たしかに、歴史を顧みれば、社会的に影響が大きい技術は「悪の技術」と言われることはよくあるようです。

近現代であれば、産業革命における内燃機関、機械化オートメーション、自動車のような移動手段、インターネットのような通信手段・・・。個々の技術は今となっては「あたりまえ」ですが、画像生成AIによる喧騒は、メディアの歴史では「写真機」が登場した時によく似ています。

いままで貴族の似顔絵を描いて生計を立てていた画家たちが、写真技術にパトロンを奪われることもあったでしょう。
しかし当時の写真技術は撮影に長い時間もかかり、銀板の上に白黒の像が出るのが精一杯で、現在のように色とりどりのカラー画像が、たくさんの人に届けられるもので無いですし引き延ばして大きくすることすらできませんでした。
それでも映像の歴史には大きなインパクトを与えました。その後、写真は映画になり、テレビになり、カラーになり、ネットになり、YouTubeやニコニコ動画のような双方向になり・・・という歴史をたどっていますが、その横には画家たちも、画材や色を探究したり、描く対象を探究したり、様々な「美と芸の探求」を行ってきました。写真家たちも同様です。

「美の探究」というものは難しく、個々の人によって異なる要素と、工芸的な品質として極めていかねばならない要素があります。
一方で、「芸術」は美術とは似て異なる要素があります。
美の探究は自己満足でも可能ですが、芸術は人に伝えてこそ価値が生まれます。
人の心を動かすのが芸術の効果のひとつかもしれません。
みんなが驚嘆するような芸術を誰もが作れればいいでしょうけど、実際には人々によってその感覚や感受性、方向性、経験はことなるので、美術工芸力が高ければ必ずしも成功するとは限りません。定規を当てたような判定は難しいのです。

ただ、美も芸も、それを極めようと思うのであれば、他者の芸にはリスペクトを持っていたほうがいいでしょうね。

それは自分が「自在にその芸を使って表現する」という視点に立つとよくわかります。

現在の画像生成AIは、先ほどの歴史の振り返りに例えれば「自動車」のような技術、もしかすると「自転車」とか「電動キックボード」ぐらいのカジュアルな乗り物になっていくかもしれません。
「補助輪を取って自分で乗りこなせるようになったよ!」「こんな曲芸ができるようになったよ」といったプレイヤーがたくさんいる中で『僕にはそんな乗り物は必要ない』と思っている人がたくさんいるかもしれません。

画像生成AIを乗りこなすにあたって、自動車運転免許のようなものはない状態です。道路交通法のような交通法規のような法律があるにはありますが、信号も、横断歩道のような決まりもない状態です。横断歩道がないところで、危険な横断をする人もいれば、信号機もないので、止まって道を譲ることもありません。

そんなところでモラルを叫んでも、難しいかもしれないですね。
赤信号でもみんなが渡り始めたら、動き出してしまうのと同じで、後ろから人が来たら押し流されてしまいます。

特にX(Twitter)を観測していると、画像生成AIに賛成の人もいれば、怪訝そうに伺っている人もいるし、明確に反対意見を持っている人もいらっしゃいます。(多くの社会人はそんなところでお気持ち表明などする不利益の方が多いはずですが)イラストレーションやグラフィックデザインに興味があったり、いままでもそのような活動をしてきた方々にはパッションや工芸的な積み上げ要素がたくさんあります。でも美術や芸術のスキルを当たり前のように取り込んできた人たちは、むしろ世間のアレルギー反応に混乱しているのではないでしょうか。

善悪の線引きをしづらい問題において「ノー!」を明確に発言する人もいれば、怪訝そうにしている人も、静かにしている人もいます。
自分の疑問をつぶやいてしまう人もいます。もちろんそれは自由ですけど、インターネットの世界は、どこからでも見えてしまう場所でもあります。聞く人が聞いたら、方向性が異なる人が聞いたら、疑問や違和感を感じる人がでてくることもあるでしょう。虫の居所や、スキルの理解速度、課題感の共有ができていないなど、コンテキストやタイミングが悪いだけかもしれません。意見や感想を持つことは自由です。自由にディスカッションできる日本人の日本語の世界はすばらしい。ですが、自分の正義を、顔も見たこともない他者にぶつけるのはちょっと待ってください。

正直なところ、生成AIの合法性、違法性といった「善悪の軸」は、法律としては重要かもしれません。法律は「法の上でのすべきこと、すべきでないこと」を定めたルールブックではあるけれど、実際のクリエイターとして生活をしている人々、とって幸せな行動を保証してくれているわけではありません。

画像生成AIに出会い、どんな画像が出てくるか、ワクワクしながら生成AIの結果を待ち、自分が想像もしていなかったような可能性に気づき、さらにそれを探究し、引き出し、具現化し・・・素晴らしい成果を得られたとします。そしてそれを世間に共有した途端に、全く異なる考え方を持った人々に殴られ、炎上し、残念な感情を持つ。
それ自体は芸術活動として捉えれば「社会に一石を投じた」ということかもしれませんが、僕はどちらかというと、そのような言語での殴り合いは、ネットでのリンチを見るような気持ちになります。そのような殴り合いを見ることで、この分野が「とてもつまらなく、かなしいもの」として捉えられてしまったとしたら、それは残念です。

インターネットは道なき道です。国道も、高速道路もあれば、スクランブル交差点もあれば、田舎道もあれば、交通量が多いわりに、信号機の無い交差点もあります。

画像生成AIには法律だけでなく、モラルや教育、免許のようなものも必要かもしれません。
クルマの免許に例えましたが、これは「全ての人」にとって必要なものでしょうか。それもまだわかりません。
僕自身は、市場はこれからも広がっていくと確信しています。
AICUは「つくる人をつくる」をビジョンに活動している会社です。本質的には人類全てが「つくる人」になることができるはずでしょうし、全ての人が自分の意思で何かを作り、表現していく世界になるとイメージできるのでは無いでしょうか。
人類は、炎も、武器も、自転車も、車も、電動キックボードも、便利なものを手に入れたら、それを手放すことはしない生物です。
もちろん、鉛筆や絵筆や写真機も、そうでしょう。創り続けるひとがいて、市場があり続ければ、産業製品として、造り続ける企業はあり続けるでしょう。

仮に「AIのおかげで誰も作らなくなった」というクリエイティブ分野があったとします。
僕が学生時代に極めていた「白黒銀塩写真」とか「8ミリビデオによる映画撮影」や「Flashアニメ制作」がまさにそういう分野です。それらの技術は産業としては終息を迎えましたが、その精神、技術、表現を「自在に表現に使いこなす」ということがまずは大事であって、それによって心を動かされる人が生まれ、そこに価値が生まれます。映像業界では、結婚式や運動会、七五三や家族旅行、海外旅行といった写真やビデオが産業の大きな一角を支えていました。いまは全てスマホに吸い込まれましたが、この分野では「上手い映像を撮る」ということには大きな価値は存在していません。誰でも上手な映像が手軽に撮影できるからです。でもスマホだけでなく、映像装置は医療機器や監視カメラとして生きていますし、画像認識技術は生成AIのベースとなる技術として世界中に普及しています。もう誰の意思でも止められないものでしょうし、生成AIもいずれそうなっていくかもしれませんね。

画像生成AIを、「自在な技術」にしていきましょう。
自在性とはコントローラビリティも重要ですが、実はもうひとつ「楽しいことである」という共通認識が大切だなと思います。
自転車のように、どこにでも行ける、みんなで行ける、誰でも使える、しかも楽しくてエコロジーな技術を「コンヴィヴィアリティ技術」といいますが、まさに画像生成AI技術はそうあると考えています。

そして、本当に表現し続けたいのであれば、誰がほんとうのプレイヤーなのか、そして誰に届けていくべきなのか、どんな人の心を動かし、どのような価値を生み出していくのか。専門家であれば、常に、見極めていかねばならないですね。

そんなことを考えながら筆をとりました。
愛を持って続きます。

この原稿は「AICUマガジン5月号」の草稿です。

近日発売開始。

https://j.aicu.ai/Mag2404

関連資料

コンヴィヴィ技術については杉山学長の論文を読むといいよ

https://msl.dhw.ac.jp/wp-content/uploads/2021/11/DHU_JOURNAL_Vol08_2021.pdf

緒方さんのnoteも紹介しとこう

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