クリエイターは「反生成AI」の毒矢をどう解毒するか
うっかり反AI派のヘイトの矢が胸に刺さって
何もできないモードに入ってしまった。
https://twitter.com/o_ob/status/1710823526067007547
せっかく窓の杜の新作を超スピードで公開して、 social good な活動をしてきたというのに、その疲れて帰ってきた瞬間の出来事だ。
https://note.com/o_ob/n/n70f16eff83b8
参加者さんから素敵な参加報告動画を頂いたその前後で、
ついうっかり毒矢を開いてしまった。
どうやら記事を僕を「AIbros」と呼び、自分のコミュニティの攻撃先に設定している。窃盗の片棒を担いでいる、オリジナリティなんてない、という主張。
丁寧に考えて考えて、対話しようと思ったのだけど。
最大限、丁寧に回答したつもり。
そもそもDALL-E3が「ドラゴンの年賀状」を描けるということは発見で、記事中では「年賀状」が有効なキーワードとして働いていることを指摘している。年賀状が作品として公開されたからこそ学習されているのであり、それは個々のアーティストが「盗まれた」と主張するには難しいという視点も含んでいる(強く主張はしていない)。「盗難の被害者」については書く必要がないし、書かれていたとしてもこの記事のコンテキストには関係がない。あえて「辰年の年賀状」という商業的に侵害を犯しづらいモチーフを扱っているという配慮が全く理解されていない。この人がもし作家だったとして、盗まれた作品があるのだとしたら、その作品についての説明が出てきて然るべき問いだと思う。というか本当に盗まれたんだとしたらそうすべき。
その証拠として本ブログではスクショも撮っておきました。
対する回答は。
理解できていないらしい。
記事をちゃんと読んだらわかるはずなんだけど、この記事自体はただのAIツールの紹介ではなく、AIを使った作品の制作プロセスを紹介する作品だからね。BingのDALLE-3は正方形の画像しか出せないし、UnCropを使った拡張テクニックは9食委員ちゃんが編み出したテクニックだし、トーニングや最終的なフォントはPhotoshopで仕上げています。
窓の杜の記事では編集部の判断でPhotoshop部分は大幅割愛されているのだけど原作はこちら
DALL-E3をタイトルに入れたおかげでさらに反AI派の毒矢を受けることになってしまったってことなんだろうか。
ところで、こういう「ネットの言いがかり」はスルーすればいいんだろうけど、そのときはとても疲れていたんだ。疲れているだけでなく、大きな仕事を成し遂げて、隙もあったんだと思う。つい、一生懸命に考えて、回答してしまった。だって、さっきまでワークショップの講師をしていたんだから。
障がい者向けのワークショップはとても疲労する。
僕が福祉の仕事に慣れていないからでもあるのだけど、ゼロから新しいものを開発し、参加者個々人の人生に寄り添って、しかも短い時間でゴールまで到達しなければならないワークショップは、いわゆるカウンセラーとか大学のセンセイみたいな仕事のように、あるていど時間をかけてフォローアップしたり、トラクションが保証されている世界と違って、一期一会度が高い。
参加者ご本人がどんな障がいを負っているか、細かい情報はないし、本人が「Yes」だといったとしても、周りで支えているご家族が「No」だと思えばNoであるし、そのさらに周囲に、SNSのような魔窟が存在する。
明るい社会を作ろう、社会との接点を作ろう、といった行政のお題目はいうが易しであって。
現代社会というものは、地方行政機関といった「物理的な社会」だけでなく、ネット上とか、ネットを通した上での周囲の物理社会(例えば学校とか、施設とか、近隣住人とか)とのセットで動いている。
僕がこんな状態になる事が望みなの?
起きたことをまとめたいのに、手が動かなくなる。毒鬱麻痺状態。
(ブログはほぼ書きかけだけど、活動自体はとても尊い)
この原作を作っている参加者さんは、3/4麻痺、つまり左手しか動かない。電動車椅子で移動されている。脳麻痺もあるので、言いたいことを聞き取るにはとても時間がかかる。本、特に文学が好きな方で、丁寧に丁寧に言葉を選びながら漫画を完成させた。とても疲れたけれどお互いに信頼感が高まった瞬間だった。
生成AIを使って障がい者さんと可能性を開発することが窃盗だと言われて傷つく
窓の杜の記事とワークショップは直接関係ないけれど、同じ作家がやっている活動なので、これは傷つく。
AIに助けてもらって描いた漫画。完成したら公開させていただこうと思ったのだけど、こんな毒矢を受けた僕は「AI画像生成に石を投げるような認識の人々がまだまだたくさんいるんだ」という認識をしたし、あったこともない人にこんなことを書けてしまう人は、障がい者にだって石を投げる野蛮な人々なんだろうなと思った。
行政マンや福祉関係者であれば、これはいちいち心を砕くべき話ではないかもしれない。でも僕は研究者でありクリエイターであり、ディレクションとしての責任をもっている。この問題を有耶無耶にすることは、行進の方々、例えば生成AIを使ったワークショップを他の自治体やコミュニティに展開するときに同じような毒矢を受けるので真剣に考えて書き残しておこうと思った。
クリエイターは「反生成AI」の存在をどう受け止めるべきか。
そして、この反生成AI派が放つ毒矢をどう考えるか。
新しいテクノロジーとクリエイティブの関係を社会に問う、ということ。
自分は普段はできるだけ、クリエイター側に寄り添って生きている。
その中で、新しいテクノロジーとクリエイティブの関係をメソッド化したり、言語化したり、時には社会に問うている。
画像生成AIが焦がす「善悪の彼岸」 - 生成AIストリーム - 窓の杜
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/aistream/1508780.html
「ChatGPT4が弱体化された」説から見るインテリジェンスの明日 - 生成AIストリーム - 窓の杜
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/aistream/1525188.html
この手のAI倫理の境界を問うような原稿がリリースされると、全然関係ないところから流れ弾が飛んでくる事がある。
たくさんの人の目に付けば、それは仕方がないことなのかもしれないけれど、著作権云々を標榜しながらも、著作人格権を踏みにじってくるような連中とか、そもそも原稿の端々に書かれた配慮なども読めていない方々とか。
元気なときならかわすこともできるが、時々急所にヒットすることもある。
「反生成AI」の毒矢をどう理解すべきか
窓の杜へのご意見ならそちらに送って欲しいし、これは著作人格権とか名誉毀損とかヘイトスピーチとかに該当する案件で、間違っても「有名税」といったような笑い事では済まされない。
最大限言葉を選びながら、どんな毒性があるのか分析してみる。
「AIbros」というレッテル貼り毒矢
AIbrosという言葉がある。AI推進者とかいった意味だけど、攻撃的に使われていて僕みたいなわかりやすい存在は「生成AIバンザイ、という立場を取っている倫理観が欠けた研究者」というレッテル貼りをされる。
僕はそんな存在だって、対話すべき相手だという認識ある。
・反AI派の主張も理解した上で前に進んだ活動をしてきた
・将来的に法の善悪のラインが変わる可能性がある
・法の是非とは関係なく感情の問題もわかる
・そもそも議論の論点が古い
生成AIと著作権の話、コモン・ロー、大陸法など著作権の成り立ちや細かい話は僕の本を読んでほしい。米国と日本では解釈が違うし、米国でも結論が出ているとは言い難い。米国の一裁判の判決だけで善悪を押し付けるのは危険な行為とも言える。
ちょっと昔の英語のニュースを延々と引用リツイートして悪のレッテル貼りをされる。逆言うと「反AI論」みたいな書籍が書けるほどまとまった議論ができる反生成AI派はいない。もちろん「反AI論」は昔からあるけれど、いわゆるバズとかアフィリエイトとか情報商材とか情弱向けの陰謀論者とかの手法とあまり変わらない匂いがする。もしくは政治活動や宗教活動、反社会的勢力の扇動勢力に踊らされている人々。
「僕はAIbros」なんかじゃない」というアナフィラキシー
僕は「AI推進派」とかいった存在にラベリングされたこと自体に苦しみを覚えている。
自分が敬愛するアーティストさんが
AI画像生成によって心を痛めていて
意を唱える活動をされている
(誰とは書かないけど、好きだった)
それは仕方がない。個人の信条だから。
厚塗りイラストレーションが誰にでも作れるようになってしまった。
時間をかけて塗り込めていく思い、それが踏みにじられた。
それはそうだ、僕は写真の出身だけど、写真だって、こんな簡単に生成されたら、ロケを探し、三脚を立て、天気を待ち、ピントを合わせ、何枚も何枚も撮り続けて、何十枚何百枚と暗室で焼いてきた写真を、(そしてそれを成立させるためにキツいバイトもたくさんした経済を)ほんの数秒で生成してしまう生成AIを「踏みにじられた」と言えなくもない。
でも作品に関係ない人が他者を攻撃する理由にはならない。
僕はその人の作品を見る目が変わった。
ヌクモリティが足りなすぎる。
どんなクリエイターでも他者を殴っていい理由にはならない。殴るなら作品で殴れ。
それは僕も同じなので、この作文は最大限愛を込めて握りこぶしを握りしめている。
クリエイターの現場には生成AIがどんどん入り込み、普通の技術になってきている。
今回の記事は「Bingで無料で誰でも利用できるツール」についての記事。
さらにクリエイターの現場には、どんどんAI活用ツール(合法)が入ってきている。
ペンネームやクリエイターの名義で「生成AI使ってます」という表明はなかなかに勇気がいるかも知れないけれど、美大芸大生の実験や研究、新人アーティスト、業務製作におけるプリプロやR&Dなど、名前を出さなくても普通に使っている人がたくさんいる。
仕事上、そういう人に接することが多いのだけど、TV業界、CM業界、広告業界などにはかなりの使い手がいる。むしろ、100人いたら10人ぐらいは確実に使い手であり、残りの80人は「知っている」とか「使ったけど not for me」といった感じなので、全員じゃないけど使っている。若くて、柔軟で、人的流動性が高い人ほど生成AIの使い手として手が早い。これは生成AIだから、という話ではなくて、ちょうど「頑張ると見返りが大きい分野」や「興味」が生成AIの得意な分野にヒットしているからかもしれない。
それにAdobe Fireflyは合法だから反AIを気にせずどんどん使うといい。Adobe Stockに素材を提供したクリエイター側に還元される。
Adobe Stockは便利だし高品質だ。お金を払う価値があるし、業務ではけっこう使っていた。
反AI派はまずはStockフォトサービスに是非を問うたほうがいい。
反AI派の主張に『泥棒があなたの財布を盗み、10ドルを返そうとしたとき、あなたは10ドルの利益を得ていない』という例えあるが、ストックフォトというサービスはそもそも盗みではない。10ドル返してくれるわけでもない。
クリエイターがAdobe Stockに画像を提供したことを悔いるなら、そもそもストックサービス全般に画像を提供する契約をした時点で悔いた方がいい。
本人の判断とか、契約とかに基づくんだから、それはクリエイターの自業自得と言わざるを得ない。それに個々の素材をアップロードする際に、ストックフォトにすべき作品を選んでアップロードしている。権利関係(肖像権など)を解決しているしオプトアウトもある。
仕事を奪ったのはAIではなく君たち
反AI派が掲げている全米脚本家組合(WGA)が全米映画テレビ制作者協会(AMPTP)に長期ストライキしていた件だって、実際にハリウッド側にいたら全然違う解像度で見えてくる。
主訴はストリーミングに対して報酬が払われていない、という配信時代への時代の移り変わりが問題であって、AI関係はもっと後ろの話。
(俳優組合は別、肖像権を学習されてしまう話は保証されるべきで、これはCGアクターでも起きうる話)
むしろ配信やYouTubeで見ていた末端視聴者の意識の方が問題。「コンテンツは無料で観れる事が正義!」と考えているならまずそこがおかしい。
今後は、高い確率でコンテンツ再生されるたびに脚本家に報酬を払わないといけなくなるのかもしれない。無料でYouTubeに置かれることも意味が変わる。
ところで今回のハリウッドの長期ストライキは、生成AIだけでなく、作り手視点でも辛い要素がある。
Adobe StockのようにAI利用での報酬が整備されれば、脚本家や俳優は対価お金をもらう整備がされるのかもしれないが、コンテンツ業界はまだまだ休業状態が続いている。
ハリウッドで製作してる人間が、長期にわたる脚本家組合の訴訟でどんな辛い状態になっているか?ご存じだろうか。
半年間ずっと仕事ないんだぞマジで。
今でもその状態が続いている。ほとんどのスタッフが自宅待機だ。そりゃできることなら映画業界を辞めてNVIDIAに転職したくなるよ。
このタイミングで身銭を切ってでも生成AIを活用するパイプラインを構築していかないと、脚本家や俳優組合、そして反AI派のお陰で仕事を干されてしまう。解決を待っている間に、映像をレンダリングしていたGPUは、せっせと生成AIを学習し、(UnityやUnrealを捨て)オリジナルのゲームエンジンに組み込む研究が進んでいる。
他人のオリジナリティを認めない毒矢
反生成AIのレッテル貼りは他者のオリジナリティを認めていないだけじゃない。
著者が書いたものもちゃんと読んでいないし、
AIにアシストしてもらった作品の作者がどんな人なのか、という想像力も働いていない。
引用も適切とは言いがたい。ネガティブチェックとかバランス感がない。過激派の過去の感情論をバイラルしているだけで、新しいネタが少ない。
そもそも、これはもう当たり前に使える技術。
Windowsを使うならほぼ強制的に使えてしまうという意味では確かに選択の自由は非常に難しいかもしれない。
その文句はマイクロソフトに言ってあげてください。僕ではなく。
なお、とある「生成AIガイドライン」を真面目に解釈すると、Windowsは使えなくなるというのが僕の主張です。5月の時点から変わってない。
https://note.com/o_ob/n/n8b2f8eccf218
結局、反AIって何者なのか
結局、反AIって何者なのか。組織的に活動しているわけではなさそう。
この話は5月頃にも書きましたが、いわゆる「イノベーション反社会的勢力」かもしれない。
https://note.com/o_ob/n/n5480a53d87b2
そもそも「アーティストやクリエイターは、報酬のために製作をしている」という根本的な認識の非当事者感がある。クリエイションの報酬は対価や結果であり目的ではない。
クリエイティブとAIの関係では、反AIが目的を達成すると、AIがなくなる、とかAIを使うことを禁じる、ってことになる。
それが彼らの目的だったとしたら、反AI活動家は何が目的なの?OpenAIやMicrosoft、GoogleやAdobeに火炎瓶とか投げていればいいんじゃないの?
AI使っているから良いとかダメとかは、その人の作品を見る目の問題で、道具や手法に囚われて、作品や作家活動、その手前の創作行為そのものを土足で踏み躙っていい理由になんてならない。
盗まれたという行為が感情を逆なでするのであれば、まずは落ち着いてください。世の中のすべての創作は何かしらの創作の上に成り立っています。それはクリエイター自身が学習してきた事だし、文化庁や著作権の発想においても同じです。他人の作品を剽窃してあたかも自分の作品であると名乗ったり、商業的な作品を意図的に類似させたりすることが犯罪なのであって、学習すること自体はこの国では合法ですし、Bingは「これはAI画像生成です」という表示をしています。
というか、作家でもないのに作家の代弁みたいなことして他人を殴っているだけでは。
好きな作家が「AIに蹂躙された」と言ったら、そのファンはAI作家を蹂躙していいの?
こういうときは写真の歴史に例えてみるとわかりやすい。
特許訴訟になった企業が作ったカメラで写真を撮ったら泥棒扱いされた、
じゃあそのカメラは悪か?
使い手は悪か?
石を投げる相手を間違えて
反AIとかAIbrosみたいな争いの線だけ引いて
誰かに踊らされているという自覚すらなく
調査や論文などを書くわけでもなく
ひたすら引用で主張し他者攻撃を繰り返す…
それこそが「剽窃」そのものなのではないかなあ
本気で反AIとか思ってたら、論文とか訴状とか書くよね。
署名運動とかしているわけでもなさそうだし。
もしかして、反AIを名乗ってヘイトスピーチや反社会的活動を行うこと自体が目的なんじゃないかな……
と思ってちょっと調べていたら出てきた。
※胸くそ悪くなるので、コンディションが悪いときに読まないこと↓
2023-06-16 はてなブログ
■AIイラスト界隈でAI推進派と反AIの対立を煽るの楽しすぎてワロタwww
ポイントをかいつまんで引用しておこう
僕はこんな安全圏から石を投げ、おさまっている議論に油を注ぐだけの毒矢職人さんのためにここまで5,000文字も創作している。全体では13,000も字を超えている。
もはや人類への愛の気持ちで取り組んでいます。
ただし単なる遊び気分のヘイトスピーチなら、二度と絡まないでください。僕はプロの作家です。
画像生成AIの使い手への愛護の言葉
確かに生成AIで画像を作り続けている人というのは、
いわゆる一流の描き手ではないのかもしれない。
きっと才能のあるアーティストさん側からみたら今はキモい存在かもしれない。
遅筆で、自分が創りたい表現世界を描くよりも先に疲れてしまう。もしくは、「絵を手で描くよりも、社会に付加価値を出してしまう何か」がある「別の能力者」たち。
加えて生成AIを使いこなして人々にわかりやすく伝える能力が誰よりも早く速い。
僕はそんな存在でいいと思う。幸いにしていろんな能力を持っているし、複合的な能力を持っていないとできない仕事をしているので。
一方で、一枚岩で優秀とか、優秀でないとかそういう優生保護的な思想が、今まで書いてきた毒矢をシコシコと錬成し続けている世界もあったりしますね。
「エリートじゃないと生きていけない」という圧のある環境で育った人たちが、「エリートではないという自覚」の中で毒を練っている。
メシウマ、つまり「他人の不幸で今日も飯がうまい」という人たちが、そういうごはんで出来上がった脳みそで毎日暮らしている。
でもその趣味は現在は犯罪性を持ちます。法律も変わっていますのでお気をつけて。
僕は何か辛い事があった時、人々を「何かしらのディサビリティを持っているのが人間なんだ」と見るようにしています。みんな完璧じゃないし、みんな何かしらのディサビリティを持っている。
どうやって幸せな状態で生きていければいいか、を一生懸命考えて、行動しながら他者に迷惑をかけない限り自由に生きているこの世界で、毒矢をシコシコと作り続けないと生きている感じがしないという毒矢づくりの能力者がニタニタ笑って毒矢を練っているとしても、それは尊重してあげよう。
ただし人に向けて撃つなよ、これは警告。
少なくとも僕は他者に迷惑をかけたくはない、だから僕の間合いには迂闊に入らないでください。
障がい者向けのワークショップとAIは相性がいい。でも、子供と生成AIは、ちょっと待ったほうがいい。
画像を作る仕事と長く(40年ぐらい前から)付き合ってきた。
僕はそんな存在でいいと思う。CG・インタラクション技術の国際会議「SIGGRAPH」と同じ年齢。CGもゲームも作ってきたし、写真や絵や漫画も描いて来た。VTuberとして肩が動かないのにそう見えないダンスをいっぱい踊ってきたし、絵を描くことは楽しいし、息子には鉛筆で絵を描くことの大切さを教えている。
ネットにも優しい世界はある
障がい者向けワークショップに作例を投げかけてくれる人もいれば、僕の連載に「面白かったです」っていう愛護の声を投げかけてくれる人もいて優しい世界を感じる。
けっきょく誰も速度についていけてないんです。AI擁護派も反AI派も。
人類の理解速度に合わせた「価値を作り出す価値のある仕事」をするしかないってのが自分の信条です。
速度と頻度が速すぎる説。
Stable Diffusionのリリースから1年です。
僕の周りのAI関連会社さんでは、同じぐらいすごいものが生み出されていて、毎日飽きませんし、批判される必要がない。一方では、これをきっちり価値をわかりやすくして、産業にしていくという登山は結構大変です。
一方で、画像生成ぐらいでこんな大騒ぎになってるとすると、自動運転車とか医療とかにAIが入ってくると、社会はどんなアレルギー反応を起こすんだろう……って不安になります。
人類は野蛮、というか「文明社会こそ野蛮の本質」だなあと思います。
「頑張っているかどうか」が人の心を動かす、みたいな感覚が日本人にはありますが、この「頑張る」って、近代日本語の中でも謎が多い単語です。
語源を軽く調べてみましたら興味深い読み物がありました。
僕は子どもたちに、「頑張るって何?」と何度か訊かれたことがあります。
そのたびに「基本的なことを、丁寧にやるってことだよ」と教えています。
これは自費浪人時代に自分自身が数学と向き合っているときに気がついたことなのだけど、基本的なことを丁寧にやらないと、派手な解法とか、スピードとかがどんなに速かったとしても、やはり間違いでしかない。
わかった気になって、基本的なことをすっ飛ばしていることが、いちばんの間違い。この間違いに気づくには、10年ぐらいかかる。自分は18歳で気づいたので、けっこう遅かったけど、これがハタチ過ぎても気づいていないひとはけっこう多い。なまじ才能がある人ほど、気づかないことも多い。
障がい者向けのワークショップとAIは相性がいい。
これからもインクルーシブなヌクモリティがあるワークショップをしていきたいと思う。
「しょうがいしゃ」を「障害者」とか書くと『障がい者と書いてください』と殴ってくる人がいる。ことばは共通に使われていないと通じないので便宜上「障がい者」と書くのだけど、こういう話は実は英語でもあって、英語圏では handicap という言葉はもう使わないのが通例だという。これは「帽子の中に手を入れる」という意味が語源だけど、そこから「物乞い」だとかいった意味をくっつけた人たちが、その言葉の呪いを断ち切るべく「ハンディキャップと言う人は時代遅れ」と言ってくる。最近の英語圏では disabled personとかchallengedとか、ありとあらゆるいろんな言葉が生まれている。
一方で、僕は障がい者に向かって「障がい者」という言葉を使うのに抵抗がある。可能であればできるだけで言葉を選びながら「disabilityをもっているひとびと」とか「他の人より重い挑戦を背負っている人たち」という表現を多く使う。アビリティをもっている、という意味で使っているのだけれど、英語の知識がないと伝わらない感じもするし、いわゆる健常者からみた世界観で表現している時点で、まだまだ修行が足りないなんだと思う。
以前、聴覚に障害がある方々とともにワークショップをしたことがあるのだけど、手話話者に囲まれたら企画会議どころか、僕なんて何も話せない人。そういう世界観は一生に一度でも体験しておいた方がいい。
今回は、障がい者向け、デジタルクリエイションのワークショップの背景を描く技術として生成AIを使ってみた。強制的に全員使う、という話ではなく、3/4麻痺、つまり左手しか動かない方が一生懸命描いた絵が、あまりに難しかった(読むのが難しい)ので、考えに考えて慎重に導入している。
というか生成しているのは僕であって、彼ではない。僕がヒアリングして、僕が作った画像を提供して、コラボレーションしている状態。
(作品は今度、載せるかもしれない。もう一度だけチャンスが有る)
これからの人生で、彼は(断言できないけれど)いきなり四肢が自由に使えたりする日が来ることはないのかもしれない。そんな中で、自由に飛んだり跳ねたり走ったり…といった活動ができるような技術、つまりロボット技術のようなハードウェアがやってきたら、世間は両手を叩いて拍手するのかもしれない。
だけど、その四肢代替ロボットがとても高価だったり、福祉のお値段では誰もが使えるものにはならなかったり、絵がかけるほどの精度がなかったら。脳性麻痺がある彼が使えるほどBMIが万能ではなかったら。
そうなると、やはり対話的な生成AIによる画像や、AIのアシストによる感情の表現といったソフトウェアによる解決は重要な技術になる。
両手が自由にならないと拍手は難しい。
でも「拍手」というコマンドやプロンプトだったら、かなり幅広い人々が使えるんじゃないかな。
このワークショップは、そういう意味で、慎重だけど、確実に、参加者や関係者に価値や意味を伝えている。そう信じている。
👏👏👏
でも、子供と生成AIは、ちょっと待ったほうがいい。
一方で、子供に向けた生成AIのワークショップは、(障がい者と違って)より慎重に扱ったほうがいいと考えている。
生成AIが万能であるような印象を与える必要はないし、これによって絵を書いたり、(LLMの場合は)作文することが無意味であるような印象を与えることは、「『新たな依存』を作り出す存在になるという責任」をよく考えたほうがいいと思う。
障がい者は本人の努力によって解決しないから、社会福祉を受けている。
一方で、まだ未来がある子どもたちから、
努力するチャンスを奪ってはいけない。
そういう意識でワークショップを設計してほしい。
これは例えるならば、人類と炎の歴史みたいな例だ。
人類史における初期の炎は摩擦熱によって人力と小さな道具で生み出されていた。
知識としてこれは知られていることだけれど、じゃあ実際に現代人に火おこし体験をさせてみると、いろんなことが体験できる。
手のひらは擦れ、場合によっては血を吹く。痛くて火なんて起こせやしない。キャンプや体験授業でもなければこんなことをさせられない。
では便利な道具としてマッチやライターを持たせればいいか。これだって、今の子供達にとってみれば、安全に扱いきれる道具とは言い難いだろう。十分な危険と安全を学ぶためにはそれなりに「安全な砂場」や「まともな指導者による練習」が必要だ。これが都市ガスだったり電子レンジだったとしても、同じことだ。あなたは電子レンジにアルミホイルやレトルトパウチをそのまま入れて加熱ボタンを押したことはないだろうか。僕はある。ちゃんと危険表示がされていたとしても、読めていたとしても、認識していないし、人生には「必要な失敗」というものがたくさんある。
テクノロジーが進歩すれば進歩するほど子供を育てるのは大変になる
我々人類は完全な姿で生まれてこない。
おなじ哺乳類でもシカは生まれて数時間で歩けるようになる。一方で我々ヒトの子供は完全な直立二足歩行ができるようになるまで1年以上かかるし、言語を理解して安全に行動するには5年はかかる。サッカーのようなゲームで集団行動をして勝ったり負けたりといった目に見えない概念や感情を理解して行動するには7年ぐらいかかる。このへんの年齢では個人差も大きくなり、小学校も1年生ぐらいになると、早生まれと遅生まれで、身体能力や判断能力には無視できない大きな差が生まれる。
さらに社会が複雑になればなるほど教育には時間がかかる。覚えなければならない言葉、どんどん分厚くなるルールブック、科学技術、多様な他者への優しさや思いやり、自分自身が生きていくための経済力や自立性。
現代の「あたりまえ」と呼ばれる能力の平均値は、分母やスキルの要素が多くなればなるほど多次元的に多様になるはずで、教えることは多くなり専門性が求められる。一方で義務教育なりの学習時間は有限なので希釈されていく。だが社会は不寛容で「教えられたのだからできるはず」という視点で、大量の「平均以下の存在」を生み出していく。
生成AIは使うものと使わない者によって格差を生む可能性がある。
自治体によって意見は様々であり、このライン引き自体が格差を生む。文科省は早い段階で暫定ガイドラインを示した。
このような毒矢が飛んでくる社会においては、きっと色々な感情論がこのガイドラインの内側外側で様々な正義や権利を主張しているだろう。学校の先生、家族、周囲の友達、信頼していた仲間たち……それぞれが異なる意見をもって然るべきだと思う。
ワークショップを設計したり、担任の先生のようなポジション、子供を持つ親御さんは必ず、メリット・デメリットをしっかりと(大人からの上から目線ではなく)同世代の社会で認識させつつ、その是非について、かならず一度はディスカッションを体験させておいてほしい。
山形の小学校での事例は大変参考になる。短いニュースなので観てほしい。
その中で、こんな少年がいた。
この少年は、ChatGPTを使わない派、ではあるけれど、使う派に対して毒矢を放ったりはしていない。むしろ、自分の決定、その努力と「どんな結果でも受け入れられる」という自分の信念を自覚している。
一体どんな環境で育ったらこんなことが言えるのか、とても興味があるけれど、これはある意味真実だと思う。
一部の子どもたちが生成AIによって能力にバフをかけたとしても、やはり知っている知識や想像の空間が狭ければ、生成できるものには限界があるし、その真偽も検証することができない。格差も生むだろう。
しかしその軸ではなく「どんな結果でも受け入れられる」という状態になるためには、「人々は他人に関係なく、それぞれ個々に努力しなければならない」という隠れた命題の認識が感じられる。いわゆる「覚悟」がある。
宿題に例えて表現すれば「宿題をやるのは先生に言われたからじゃなくて、自分に必要だからやる」みたいな主体性がある小学生にとって、宿題をやることもやらないことも、他人のノートを見て写すことも、自分の努力に対する結果とその信念と向き合っているかどうかを伺っている、とも読み取れる。
ChatGPTにお伺いを立てることで、世の中を少しでも生きやすくすることができる一方で、ハードモードの人生を自分で選択し、自分の意志で決断し、それを楽しんで生きてほしいと思う。
むしろこういう覚悟がある人物は、地球環境とか温暖化みたいなグローバルで複雑な課題で「どんな結果だったとしても受け入れる」だろうし、そこに至るまでには誰もが使えるChatGPTみたいなAGIもどきに惑わされるのではなく、世界中の気候データや消費者の行動などをセンシングして、人間の意志のみがこの問題を解決できるってことをみんなに示しちゃったりするんだろうな。おじさんは楽しみだ。
以上、うっかり反AI派のヘイトの矢が胸に刺さって
鬱麻痺状態に入ってしまったのだけど、
おかげでしっかりと休みを取って、これぐらいの文章は書けるようになった。
ぼくはクリエイターなので、どんな毒でも薬に変える。
みなさんも、そうやって生きてください。
ありがとう毒矢職人さん、良い連休をお過ごしください。
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