『カリスマ』#74まで見た感想 ~7人の異常者たちによる人間賛歌~
ただのトンチキじゃなかった……くやしい……。
超人的シェアハウスストーリー 『カリスマ』(©Dazed CO.,LTD.)のボイスドラマ1stシーズン全74話を一気見しました。
『カリスマ』とは、『ヒプノシスマイク –Division Rap Battle-』のキングレコード(EVIL LINE RECORDS、株式会社Dazed)によるyoutubeを主軸に展開する二次元キャラクターコンテンツであり、原作を『おそ松さん』『銀魂』などの脚本を手掛ける松原秀(まつばら しゅう)氏、キャラクターデザインを『HIGH CARD』のえびも氏、アートディレクションは『ヒプノシスマイク』に引き続きBALCOLONY.が担当しています。
あらゆる方向に突き抜けることで視聴者を認知的不協和に陥れる奇想天外なMVで話題のIPですね。
さぞシナリオも狂っているのかと思いきや、丁寧なキャラクター造形や生っぽさのバランス感覚が絶妙で、まんまとカリスマたちを大好きになってしまいました。くやしい。くやしいけど面白い。でもくやしい。
イントロ:カリスマ概要
『カリスマ』のフォーマットを簡単に説明すると、それぞれ正邪、秩序、服従、反発、内罰、自愛、性 のカリスマとされる7人が住むシェアハウスを舞台に、カリスマたちの日常を描いたボイスドラマがYouTube上で週2回更新(2022年9月現在は準備期間)され、ドラマの内容に応じて毎話カリスマチャージが行われます。チャージが溜まってカリスマメーターが100%になるとカリスマブレイク成功となり、変身バンクとともにカリスマブレイクの姿とソロMVが発表されます。何を言っているかわからないと思いますが私もわかりません。大丈夫です。慣れます。
その他に前述の全員で歌うMVが定期的に発表され、先日それらの楽曲とボーナストラックを収録した1stアルバム『カリスマ ワールド』が発売されました。
とまあ要するに、youtubeのアニメコント的なボイスドラマと音楽系IPを掛け合わせたコンテンツと言えると思います。
全員MVの後にまずソロMV(通称カリスマブレイク曲)を見たのですが、相変わらずオマージュや引用が多用されているものの、おふざけから一転、上質な楽曲と本気でかっこいいMVにさすがのヒプマイ制作陣! と膝を打ちました。
また、歌詞も合わせて見ていくとどうやら“秩序のカリスマ”はファシズム、“性のカリスマ”はフロイト主義など、キャラクターに関連した思想をモチーフにしていることに気がつきます。善悪について問いただす“正邪のカリスマ”という、ド直球に哲学的なキャラクターをセンターに据えているあたりからも少々におっていましたが、ここで本格的に「これは結構深い沼かもしれねぇぞ……」と警戒もとい期待し始めました。
そんなワクワクを胸にボイスドラマを1話から74話まで見た結果。
めっちゃ面白かった……。
正直な話、『めちゃめちゃカリスマ』を初めて見たときは、黒歴史と化したニコニコ動画マイリストを掘り起こされて「こういうの好きだったでしょ?(笑)」と眼前に突きつけられているような不信感を覚えていたのですが、ボイスドラマはそんなストレスもなく見やすかったです。いや、全員MVが高負荷すぎてキャパシティの弁がパカパカになっちゃっただけかもしれないけど……。
というわけで、本記事では『カリスマ』のボイスドラマに焦点を当てて感想を書いていきます。後半は少し歌詞も混じえて『カリスマ』というコンテンツが描くものについて自分なりに感じたことを論じます。ネタバレへの配慮はありませんのでご注意ください。
松原秀の新境地、リアルと虚構の混沌
『カリスマ』ボイスドラマは大体3~10分程度のショートドラマ。内容はカリスマたちがわちゃわちゃしている日常系コメディーをベースに、一点突破型の振り切ったギャグから笑いの一切ないシリアスまで幅広く、キャラクターたちの多面的な魅力がオタクのツボを突いてきます。
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■キャラクターがする生っぽいお笑い
なかでもネタに振り切った回は、『エンタの神様』でアンジャッシュ、東京03などを担当した経歴を持つ、お笑い出身の放送作家としての松原秀氏の実力が存分に発揮され、近頃YouTubeで勢いを見せるアニメコントを彷彿とします。
※アニメコントの先駆けマリマリマリー。こちらもお笑い系放送作家が制作を手掛けています。
『カリスマ』が一般的なアニメコント系チャンネルと異なる点は、あくまで二次元キャラクターコンテンツであり、ストーリーとキャラクター造形もしっかりと作り込まれているところです。現実のお笑いのようなライブ感のある掛け合いをしながらも、キャラクターを崩さず世界観を完成させる手腕は、実写とアニメ両方を手掛ける松原氏ならではと言えるでしょう。
松原氏が『カリスマ』においてお笑いとキャラクターの両立を意識していることは、同氏のラジオ『文化放送超!A&G+ 「裏方」#91』(2022年2月25日放送分,ゲスト:声優 大河元気(おおかわ げんき)氏(テラ役))で以下のように語られていました。
どうやら松原氏はキャスティングの段階から「キャラクター」と「生っぽさ」に強いこだわりを持っているようですね。
アニメコントという特性を生かし、放送作家であり脚本家である松原秀氏が持つお笑いとアニメ脚本それぞれのノウハウがうまいこと融合した『カリスマ』は、氏の「新境地コンテンツ」と言っても過言ではないでしょう。
そしてこの「生っぽさ」は後段に述べる人間臭さや、私が思う『カリスマ』の本懐にも密接に関わっています。
■ボケツッコミから生まれる人間臭さ
“お笑い”とは基本的にボケとツッコミの役割分担によって構成されるもの。『カリスマ』も例外ではなく、カリスマたちはエピソードによってボケとツッコミをローテーションで担当しています。
そして、このボケツッコミの構造が、いかにもフィクション的なぶっ飛んだ個性を持つカリスマたちに「リアリティを吹き込む装置」として機能しています。
というのはベルクソン『笑い』(増田靖彦訳,光文社)の一文ですが、ボケツッコミの基本形もまさしく非常識な言動や行動をボケが行うことで笑いを発生させ、それをツッコミが常識的な視点で指摘することで笑いを明確にします。
つまり『カリスマ』では、カリスマたちがボケとツッコミを入れ代わり立ち代わり担うことで、非常識(異常)と常識(正常)の立場も行ったり来たりしているのです。
このボケツッコミの構造も手伝って、カリスマたちは「カリスマ性(ここではカリスマと称される固有性のこと)が極端に誇張されている一方で、その範疇にない事柄については一般的な常識や社会性を持ち合わせており、ときに理念と相反する行動もとる」という、記号的なキャラクター造形に終始しない、なんとも人間臭いキャラクターになっています。
「テキトーに作ってるから矛盾しちゃってるだけなんじゃないの?」と思ったそこのあなた、安心してください。『カリスマ』のシナリオはめちゃめちゃ丁寧に作られています。
たとえば、依央利が誰かに何かを施した上で「~してもらっといて何その態度」なんて言うのは幼馴染である猿川にだけですし、天彦(あまひこ)の自称する「ワールドセクシーアンバサダー」を職種、役職と解釈しようとしていたテラは、後に部下を抱える社長であることが判明します。他にも『#29 テラ会議』では自身が反面教師になることを「社会勉強を促す教育者」、自身のポジティブ思考を「セルフロンダリング」と評するなど、経営者らしい発想が伺えます。
『カリスマ』はリズミカルな会話がテンポ良く進んでいくぶん、セリフや行動ひとつひとつにキャラクターのパーソナリティが濃縮還元されており、こうしてふとした瞬間に奥行きを感じる例は枚挙にいとまがありません。
このようにキャラクターの土台がしっかり作られているため、ときに理念と相反する行動があっても、機械的でない“人間臭さ”として作用しているのです。
また、ボケツッコミによるカリスマ性と常識の共存は、対照的に何にこだわりを持っているかが浮き彫りになるという構造も有しています。これによってカリスマたちがカリスマたるゆえん、その思考に説得力が生じ、人物像にリアリティが生まれるというわけです。
■現実とリンクする時間軸
『カリスマ』のボイスドラマは週2回コンスタントに更新することで、即時性をもって現実世界とリンクしています。(2022年9月現在は準備期間)
クリスマス、お正月などの季節イベントはもちろん、内罰のカリスマ 湊大瀬の誕生日を巡る会話を見ると、彼らが現実と同じ時間軸に生きていることがわかります。
また、現実時間の進行と物語の進行を同じくすることで、時間の経過とともにカリスマたちの関係性や行動も変化していきます。
なかでも特に顕著なのが大瀬です。
“内罰のカリスマ”である大瀬は、物語当初は非常に内向的で何かにつけてすぐ死のうとする厄介な性格ですが、カリスマハウスの面々と交流することで、死ぬのを我慢するようになったり、部屋にしまっておくだけだった自分の作品を見せるようになります。
そんな視聴者と時間を共有する現実世界のリアルと、時間の経過によってキャラクターが変化する虚構世界のリアリティが共鳴して、ついついカリスマたちが現実を生きているような錯覚を覚えてしまいます。
『カリスマ』ボイスドラマは、掛け合い、ボケツッコミ、時間の共有という要素と絡めたキャラクター造形が緻密になされていることによって、非現実的にぶっ飛んだ虚構性とリアリティが共存しているのです。
異常と正常の境界に立つ“カリスマ人間”
構造的に虚構性とリアリティが共存している『カリスマ』ですが、それはキャラクター個人というミクロな視点で見ても通底しています。ここからは、共通項を持つ作品を紹介しながら、カリスマたちのリアリティを担う要素である「ORDINARILY(普通)」な一面について書いていきます。
■異常者たちの共同体は物語る
社会からはみ出た異常者たちが同居をし、各々が持つ常識とズレがおかしさを生むという構図は、村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋)を彷彿とさせます。
『コンビニ人間』は、36歳未婚、彼氏なし、コンビニバイト18年目、人の感情がわからない“異常者”古倉恵子(ふるくら けいこ)の視点から、人々が信じる“普通”を痛烈に描いた小説です。
人の感情がわからない古倉は、他人の喋り方や仕草を吸収することで社会に適応しており、コンビニ店員として世界の歯車の一部になることで安心を覚えています。ある日古倉が勤めるコンビニにアルバイトとして白羽(しらは)という35歳の男性が入り、お互いの利益のために二人が同居生活を始めることで物語が動いていきます。
この白羽がなかなかの社会不適合者で、怠惰で高慢で言い訳ばかり、婚活目的で始めたコンビニバイトもすぐクビになるという有様なのですが、口だけは達者で、古倉に対して「お前が言うか?」と言いたくなるような“常識”を振りかざします。対する古倉も、白羽に対してはストレートに自分の考えを伝えます。
もちろん本人たちにそんなつもりは毛頭ないのですが、二人のやりとりは図らずもボケとツッコミの関係が成立しており、なんともユーモラスなのです。
『コンビニ人間』における異常者たちの共同体は社会に適応するための取引に過ぎず、古倉は自ら共同体を解消し、自分にとって最適な生き方を選択しました。一方ソン・ウォンピョンの小説『アーモンド』(矢島暁子訳,祥伝社)では、異常者たちが歩み寄り、交流を通して愛を知る姿が描かれています。
『アーモンド』の主人公・ユンジェは生まれつき扁桃体が小さく、感情を感じること・うまく表現することが難しい「失感情症」と診断されます。ユンジェの母はユンジェに喜怒哀楽愛悪欲の7つの感情を公式のように暗記させ、ユンジェが社会に埋没するよう努力しますが、ある事件によって植物状態になってしまいます。家族を失い学校で孤立するユンジェでしたが、ゴニというもう一人の“怪物”と出会うことで、少しずつ何かを感じていきます。
ゴニは感情をうまくコントロールできずに問題行動ばかり起こしてしまう不良少年で、はじめはユンジェを暴力のターゲットにします。しかし、ユンジェはそんなゴニに興味を持ち、遠回りをしながらも二人は心を通わせていくのです。
カリスマ達もまた、7人が住むシェアハウス「カリスマハウス」で共同生活を送るなかで、互いに常識と非常識の立場を行ったり来たりしながら、なんやかんやお互いを認め合い共存しています。
なかでもカリスマたちの結束を強く感じられる回が、大瀬が一枚の絵を残してカリスマハウスを出ていく『#64 さようなら』です。
『#64 さようなら』のカリスマたちは、大瀬をのぞいた6人のカリスマたちが描かれた絵を発見し、それを残して黙って出ていった大瀬を担いで強制的に連れ帰ります。
家に帰っても「誕生日をお祝いしてもらうという幸せすぎる体験をして踏ん切りがつきました」「幸せで怖い 耐えられない」「僕はきっといつか嫌われる わかってる いつもそうだったもん」と感情をむきだしにする大瀬でしたが、ふみやをはじめとするカリスマたちに「この絵はダメだ 受け取れない」「お前が入ってないじゃないか」と言われ、カリスマたちが自分をカリスマハウスの一員として認めていることを理解します。
結局最後には大瀬は「みんなに心配をかけた自分はクソ」と自刃しようとし、カリスマブレイクしてしまいますが……(笑)。しかしながらそれでも一緒にいることを望むカリスマたちに、カリスマハウスのメンバーがどれだけ大きな存在であるか感じられるエピソードです。
このように『カリスマ』もまた、普通を知りながらも適応しきれない異常者たちの視点から描かれた、異常者たちの共同体の物語であると言えるでしょう。
■善悪が“わからない”伊藤ふみや
カリスマたちは、大なり小なり“普通”が何であるかを知っています。
ハウスメイトの金を盗むこともいとわない、7人の中で最も非常識なふるまいをする正邪のカリスマ 伊藤ふみやもまた、善悪を全く知らないわけではありません。
『#7 正邪(伊藤ふみや)』では、大瀬の財布からお札を抜くふみやを発見し「そんなことをしてはダメです」とたしなめる天彦に、ふみやは「ダメ?なんで」と問います。そして、「ドロボーしちゃダメでしょう」には「ドロボーってしちゃダメなんだ」と、知らなかったと言わんばかりに返し、「人のモノを奪わないと俺たち生きていけないだろ」と自論を展開します。
ふみやは「誕生日プレゼントを負担に思うかもしれない大瀬のためを思って、大瀬の金から買うことにした」という理由を説明し、納得した天彦は自分のお金をプレゼント代として渡して一件落着します。しかし、オチで「実は大瀬の誕生日は半年前に終わっている」(おまけに誕生日を人に教えたことはない)という事実が明かされ、天彦の「ああ!彼はシンプルに悪い人間だ!」という叫びで終幕します。
おそらく天彦はふみやが自分に嘘の言い訳をし、成り行きとはいえ金を騙しとったと解釈したのでしょう。
ここでは、ふみやはしらばっくれていただけで、「ドロボーが悪いことであり、してはいけないことだと知っている」ことが示唆されています。
他にも伊藤ふみやの善悪観を巡っては、『#23 ゼリー』にてテラがこう評しています。
テラのふみや評を真とするならば、伊藤ふみやに善悪の弁はあるのです。物事を善と悪に区別することはできる。しかし、区別から行動までの過程でどこかに異常をきたしており、一般的な倫理観に基づくストッパーが機能していない。パカパカしちゃってる。
そんな伊藤ふみやの内面が描かれるのが、ふみやの回想とモノローグで進行する異色のシリアス回、『#53 描く大瀬』です。
大瀬から、「理解がさらわれたとき何もできなかった自分が許せない」と打ち明けられたふみやは自問します。
詳しいことは断定できないものの、どうやらふみやは大瀬の価値観、ひいては倫理に関して疑問を持っており、自らも答えを探す最中にいることがわかります。
すなわち、ふみやの口癖「ダメ?なんで」も、必ずしも「知っているがあえて聞いている」わけではなく、懐疑的な思考に基づくものであると示唆されています。
今ひとつつかみどころのない伊藤ふみやですが、その物事の捉え方は、『#26 訪問者』でふみやに出自を知られていたことを驚く猿川に対して言ったセリフに象徴されていると考えます。
『コンビニ人間』で他人の喋り方を真似する古倉のように、『アーモンド』で感情を公式として暗記したユンジェのように、伊藤ふみやは正邪善悪を「知っているがわからない」状態なのではないでしょうか。
少し突っ込んだ憶測の話をすると、もしかしたら伊藤ふみやは罪悪感などの感情がわからない(共感できない)のかもしれません。(俗にいうサイなんとかのイメージです。古倉やユンジェのように感情全般がない・わからないわけではないと思っています)
個人的には、伊藤ふみやの固有性は「何か」ははっきりと明示されない方向だったら嬉しいですね。
『#53 描く大瀬』で大瀬の価値観に疑問を持っていたふみやですが、迎合できない価値観に悩む様子は他のカリスマにも見ることができます。次節では、そんな戸惑いの渦中にいるふみや以外のカリスマたちを紹介します。
■“普通に”苦しむカリスマたち
ある集団において多数派の理解を得られない少数派であることは、“異常者”のレッテルを貼られるリスクを伴います。そして社会という巨大な共同体で生きていくうえでは、異常者であることは「生きづらさ」と隣り合わせの関係であると言えます。
カリスマ達がボケとツッコミの構造に伴って常識(正常)と非常識(異常)の間を行き来していることは前段で述べましたが、その板挟みはときに「普通に適応できない痛み」としてまざまざと描かれています。
そんなカリスマたちが抱えてきた「生きづらさ」が垣間見えるのが、海でのわちゃわちゃから一転、凡人を奈落に突き落とすジェットコースターのようなシリアス回、『#72 夏祭り』です。
『#72 夏祭り』では、花火大会を前にみんなとはぐれてしまったカリスマたちの様子が、理解と猿川、依央利と大瀬、テラと天彦の二人一組で映されています。
理解と猿川のパートでは、理解が自分の信じる“秩序”の適用外である縁日の文化に直面し、「こういうことは普通のことなんだろう わかってる おかしいのはきっと私のほうなんだ」と悟ったように吐露します。対する猿川は「お前は何もおかしくねえよ すげえんだよ お前はちょっと凄すぎるだけだ」と返し、理解に縁日を体験することを勧めます。そんな猿川に理解は「友達のようだ」と動揺を見せますが、猿川は一笑し、二人は縁日の人ごみの中に消えていきます。
秩序を重んじるあまり周りに馴染めなかった理解の背景が伺えるとともに、「おかしくない」と断言する猿川の優しさが感じられる一幕です。
依央利と大瀬のパートでは、大瀬は依央利がりんご飴を食べたいのに我慢していることを見抜き、「他の人のことはいい」「だめ! リンゴ飴、買お!」と強く訴えます。依央利の奉仕が自己犠牲による自傷行為に通底することはこれまでも指摘されて来ましたが(『#19 ふみやと依央利 』、『#43 お花見』など)、この回では依央利と折り合いの悪かった大瀬が依央利の自己犠牲を許さず、積極的に人と関わろうとする大瀬の変貌が見られるともに、改めて依央利の自己犠牲の危うさが印象付けられています。
テラと天彦のパートでは、テラが天彦に縁日にまつわる幼い頃の思い出話を語ります。
この告白を受けて、天彦が「僕はお祭りに来ても特に思い出すことはありません」と話し始めたところで花火が上がり、天彦が何を言おうとしたのかは明かされることなくエンディングを迎えます。
今でこそ自愛のカリスマとして自己肯定感に溢れるテラですが、その道程にはほの暗い過去があること、またおそらく保護者と良好な関係を築けていなかったことが伺えます。
そして、実はこのエピソードは『#42 夏祭り』の前に公開されたカリスマブレイク曲『LOVE MYSELF』(作詞:Kanata Okajima)にて、その存在が暗示されていました。
同様に、カリスマたちがソロで歌うカリスマブレイク曲では、しばしばカリスマたちの心に奥に隠されたものをのぞき見ることができます。
なかでも猿川のカリスマブレイク曲、『LONE WOLF』(作詞:Yuta Kobayashi)は普通の圧力と孤独に苦しむ猿川の心境がストレートにさらけ出されています。
猿川は、『カリスマ』におけるストーリーの軸の一つである「山口リュウ」や「組織」を巡るエピソードの中で、裏社会と関りがあり、なんらかの施設(おそらく児童養護施設のようなもの?)の出身であることが示唆されています。『LONE WOLF』の歌詞は、そんな出自を持つ猿川が抱えてきた生きづらさと、心を通わせる仲間への切望が表れていると感じます。
▼山口リュウと組織については以下の記事でまとめています。
『カリスマ』では、カリスマたち(異常者)と普通の人間という対比構造を表すとき、「カリスマ」「凡人」という言葉が用いられています。公式サイトのイントロダクションに「凡人にはよくわからないと思いますが~」なんて言葉があるように、凡人と一線を画す常軌を逸した個性を持つカリスマたちですが、彼らもまた、社会や人間との関わりに頭を悩ませる「普通の人間」でもあるのです。
その証拠(?)に、『カリスマ』のロゴやデザインには、「THEY'RE JUST ORDINARY GUYS(直訳:彼らはただの普通の人たちです)」というフレーズが繰り返し出てきます。『カリスマ』の言葉を借りて意訳すると、「彼らはただの凡人です」といったところでしょうか。
『七人のカリスマ キャラクターPV –THEY’RE JUST ORDINARY GUYS–』ではついにサブタイトルにまで使われていました。一見「どこがやねん!」というツッコミ待ちのシニカルなギャグに見えますが、一方で「この言葉はカリスマたちの救いでもあるんじゃないか」と深読みしてしまったり……カリスマと凡人の対比に笑いとシリアスを乗せる『カリスマ』らしい演出だと感じます。
藪をつつけばヤマタノオロチが出てきそうな『カリスマ』の面々ですが、もしその過去が超シリアスに描写された日にはガンパレの裏設定ばりにショックを受ける自信があるので、ぜひともお手柔らかにお願いしたいですね。
傷だらけでクソデカ大声の人間賛歌
とはいえ、『カリスマ』はそんなセンチメンタルな物語ではありません。
カリスマを生成することでカリスマチャージが蓄積され、カリスマメーターを100%にしたカリスマたちがカリスマブレイクを成功させるカリスマブレイク回は、紆余曲折ありつつも結局最後には各々がそのカリスマ性を強化する構成となっています。
それぞれ記念すべき第1回目のカリスマブレイクとなる1stシーズンでは、カリスマたちがみなぎるほどのクソデカパワーをその言葉に宿しカリスマブレイクを成功させました。
この清々しいまでの突き抜けぶり! もう言葉は必要ありませんよね。感じてください。ここまで長ったらしく書きましたが、私はこれこそが『カリスマ』の本懐だと思っています。前段で述べたリアリティと虚構性の構造、緻密なキャラクター造形、それぞれが抱える生きづらさ、それら全てがこのカリスマブレイクに収束し、ハチャメチャぶっ飛びバカ野郎な言動に「人生」を与えているのです。
そう、つまり、言うなれば『カリスマ』とは、「普通と違ってしんどいこともあるけど、ありのままの自分を生きるぜ!!」という、傷だらけの男たちの生き様! 人生! 人間賛歌の物語なのです!!
そんな心意気を見せつけてくれるカリスマたちですが、1stアルバム『カリスマ ワールド』に収録された新曲『神の領域』(作詞:及川眠子)では、カリスマたちの意気込みと我々凡人(ここではファンの意)へのメッセージを力強く歌っています。
そうです。彼らは強く、気高いのです。自分の哲学を築き上げているのです。自らの生を貫き通しているのです。くじけないのです。
それはまさしく、他者から理解を得られずとも自分を貫き通し、死刑判決を受けてもなお「私は正しい」と言った『異邦人』のムルソーのように!!
ムルソーは自分に正直に生きた結果悲劇の結末を迎えますが、カリスマたちは(たぶん)そんなことにはなりません。『カリスマ』の宇宙では自由と引き換えに非業の死なんて(たぶん)待っていないのです。無敵のムルソーです。だって『カリスマ』は喜劇だから。彼らには仲間がいるから。
カリスマブレイクしたカリスマたちは、ただひたすら私たちに「色々あるけど気にすんな! お前も狂え!!」とめくるめくカリスマの世界 ~カリスマワールド~ を見せびらかしてくれます。
ぶっ飛んでるけどどこか身近、身近だけどぶっ飛びまくってる。そんなアンビバレントな魅力を持つカリスマたちの姿に、凡人は勇気と希望を感じずにはいられないのです。
そう考えると、『人間っていいな』をもじった『カリスマっていいな』は、人間をカリスマに置き換えた「普通の人間(凡人)へのアイロニー」ととれる一方で、人間にカリスマを重ねた「人間でありカリスマである彼らの自己肯定ソング」にも思えてきます。
…………まあ、彼らがカリスマであり続けることが本人にとって良いことであるかはなんとも言えませんが……。特に大瀬……とあと依央利と猿川も……。大瀬なんかは一番自分を変えたがっているけども、内罰を克服すると固有性が失われてしまいますし……。そこは「カリスマハウス」が「カリスマ性を育む場所」である以上(公式サイトのイントロダクション参照)、今後のストーリーにも影響してくるかもしれませんね。
おわりに
『カリスマ』ボイスドラマは実写&アニメの放送作家&脚本家である松原秀氏がそれぞれのいいとこ取りをし、あらゆる角度でリアリティと虚構性が入り混じっためちゃめちゃ超人的でめちゃめちゃ人間的な新境地コンテンツでした。
個人的には、『カリスマ』は一貫したテーマや意味、目的を“見つける”ことはできるけれど、本質的には存在しないコンテンツだったらいいなと思っています。だって人生ってそんなもんじゃないですか。
『めちゃめちゃカリスマ』をはじめとする全員MVのように、共同生活を始めた意味をわからないままにした伊藤ふみやのように、『カリスマ』では上質の「わからない」を楽しめたら嬉しいです。
それでは、『カリスマ』ボイスドラマ1stシーズン全74話を視聴したまとめとして、私はもし誰かに「『カリスマ』って何?」と聞かれたらこう答えようと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
いてもたってもいられず自分の感じた『カリスマ』の魅力をぶちまけてしまいました。
もし共感いただけたらぜひぜひ共有お願いします!
負荷をおかけして恐れ入ります♪
▼カリスマは音楽も素晴らしい! ということでアルバム『カリスマ ワールド』の感想&全曲レビューを書きました。楽曲制作者や元ネタの紹介もまじえつつ、もうちょっと砕けた感じで書いています。こちらもよかったら読んでください♪
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