2024/3/30 贖罪

どうも、社会的に生と死の間をふるいにかけられていたものです。人間本当に追い込まれたら自分をひけらかす余裕なんてないんです。たまたま空から蜘蛛の糸が降ってきて形式上何とかなりましたが、どうやらその糸は黒部に縛り付けるためのものだったと知ったときはもう手遅れです。職があるだけでありがたいのに人間という生き物は本当に欲深い。まぁ帰れたらやったーくらいの心構えで日々を乗り越え、いやできた差を追い抜きに行ってやろう。

そんなこんなであたかもハッピーエンドみたいな書き方していますが、一つだけ、どうにもならなかったことがあります。ありとあらゆる手を使い記憶を補完してきましたが(未遂におわった四国旅行、日本制覇し海外旅行、卒業式乱入)、時間というのは悠久の流れであり、自分みたいな人間を待ってくれるわけではないのです。

祖父が亡くなりました。もうじき一年がたちます。父方の祖父はすでに亡くなっているので母方になります。もう少し事情を詳しく説明します。

疑問に思っている方もいるかもしれませんが、長期休暇に行う高岡での長期間滞在は一体どうなっているんだ、の答えは、母方の実家にいつも滞在しています。生々しい話ですが母方は実家が太く、家も大きいのです。父方の家も車で五分ほどなのでよく行っていましたが、滞在期間が圧倒的に長いのが母方、ということになります。

その上母方は本家であり(富山ではそういうのが意識される)僕が初孫ということで大変かわいがられた。もちろんうまいもんたくさん食べさせてもらったし、お金もどえらいいただいた。といっても祖父は基本的にこたつで夏は甲子園年末は駅伝を見ているだけだが(ちなみに僕の長距離の速さは母父からきている。運動神経が引くほどないのに唯一これだけ目立つのはサラブレッド様様である)。なので何の娯楽もない富山で僕らも一緒にだらだらする日々を楽しみに過ごしてきた。

そんな祖父の口癖が「社会人になったらうまいもんごちそうしてくれ」だった。親孝行ってやつだ。孫にごちそうしてもらうのを何よりも楽しみにしていたと思う。それまで生きていなきゃ、ともよく言っていた。

もちろん職に就かないなんて有り得ないが、田舎だともっともっと有り得ないので祖父母には大変非難された。無論自分が悪い。しかしながらこうとも思っていた、あんたらがあのばけもん育てたんちゃうんか、とも。

祖父の容態が急変したのが2023年に入ってから。そこからはとんとん拍子だった。病気とは恐ろしいもので、助からないものは助からないのである。そのぎりぎりのタイミングで僕は無理やり祖父母に会いに行っていた。僕だっていちいち苦言を呈されるのなら行きたくない。そう主張していたのは本当に愚かな話でそれが元気な姿を見れる最後の機会だった。

思う。まだ思う。いやこれも一生引きずるだろう。自分がすんなり就職していれば、ごちそうの一回はできただろう。仕方なくても23卒で決めていれば祖父を安心させられただろう。結局、恩返しどころか心配させたまま祖父はこの世を去ったことになる。

衰退している祖父を見たときに大変失礼な話だが大泣きしてしまった。僕は何よりも生き死にに弱いのもあるが、本当に取り返しのいかないことになってしまった。自分への失望の涙だったと思う。当時は就職できるとも思っていなかったし、本当に情けなさでいっぱいだった。

葬儀にはたくさんの親族がいらっしゃったが、無職の初孫はまぁ腫物扱いだった。やむを得ない。こういう時肩書って大事なんだと思わされた。あれもまた地獄みたいな時間だった。死んだのは自分じゃないのに。

就職が決まったのはそこから四十九日の間。結局散々振り回された母の、北陸自動車道より見える景色からの助言で受けた企業から唯一の内定を頂いた。母は祖父のおかげだとわめくが(既卒二年での内定っていろんな意味ですごいと思いはする)「富山県」所以でいけば十分否定はできない。そうだと思う。準地元だからこそ、なのだと思う。

墓にどれだけうれしい報告を持って行ってもしょうがない。焼かれた骨には無論五感はないのである。手遅れなのだ。「推しは推せるうちに推せ」素晴らしい格言だと今だと深くうなづける。

今、これからの自分にできることはもう墓参りに行くことしか残っていない。自分の実力不足でそれしかできない。ただ、僕はこれからも富山に縛られて生きようと思う。それが定めなのだと。一生背負っていく贖罪なのだと。または、遅れた恩返しなのだと。その責任が僕にはある。そう思う。

まぁ配属とは別の話だけどね。完

PS. 黒部と高岡は車で50㎞、電車で二時間なので全然地元じゃないです長津田から箱根くらい

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