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創作講談「外郎藤右衛門物語」

外郎家(ういろうけ)の歴史を題材にして創ったネタを公開します。
「ういろう」と言えば、和菓子。
その通りなんですが、元々は、薬だったんです。
明の時代に、中国から日本に帰化した唐人が持ち込んだ霊宝丹(れっぽうたん)という薬が起源なんです。
そして、帰化した際に、名字として外郎(ういろう)と名乗ったそうです。
また、この薬は、当時(室町時代)の朝廷に透頂香(とうちんこう)と名付けてもらったのですが、漢字を読める人も少なかったことから、
透頂香の名前は、差ほど認知されず、江戸時代に入って、
製造販売元の名字をひらがなで「ういろう」と記したところ、
世間では、この薬のことを「ういろう」と呼ぶようになったそうです。
ちなみに、今でも、株式会社ういろうの本店では「透頂香」の薬名で
製造販売されています。

本ネタ

「ういろう」と申しますと、和菓子を思い浮かべる方もおられるでしょうが、その起源は、今から遡ることおよそ六百五十年前、正平二三年、明国から筑前博多へ渡来してきた陳延祐、陳大年親子が携えてきた霊宝丹という霊薬にございます。
この薬は、腹痛、下痢、渋腹、慢性胃腸炎、胃痛、胃痙攣、食中毒、嘔気、二日酔い、便秘、消化不良、食欲不振、頭痛、眩暈、心悸亢進、咽喉痛、咳、痰のつかえなど万病に効く妙薬.として評判でございました。

 明王朝勃興の動乱のおり日本へ亡命してきた陳延祐は、元王朝時代、大医院・礼部員外郎と言う官職を務める医師であり役人でございました。宮廷や皇族の医療を担当しつつ、朝廷の儀式、礼節、外交関係の業務なども担当。日本で考えますと、宮内庁病院の医者でありながら、外交官も務める。今で言うところの二刀流でございました。その官職名であった「員外郎」の「外」の字を「うい」と読ませ、父延祐は陳外郎延祐、息子大年は陳外郎大年と名乗りました。

 その頃、京の都では足利義満が室町幕府第三代征夷大将軍の座に就きました。義満公は、医薬術に加え、大陸の知識を持ち、外交にも長けた延祐の上洛を何度も求めました。
だが、頑なに博多の地を離れようとはしませんでした。

大年: 「父上は、なぜ、義満公様の招聘をお受けになられないのですか?」
延祐: 「わかっておると思うが、儂は元の朝廷に医師として仕えた身。 
易々と新たな権力である明国朝廷にも従えなかったように、義満公様とて同じ。二朝に仕えることはできぬ。儂がなぜ、身の危険を冒してまで故国を捨て、倭の国までやって来たのか。富や名声のためではない。医薬の力で人を救いたい。只それだけだ。」
大年: 「父上のお志、そして二朝に仕えることができぬお気持ちも理解できます。ならば、代わって私に上洛させてくださいませ。」
延祐: 「今はその時ではない。」
大年: 「では、いつまでお待ちすればよろしいのでしょうか。京の都にも病で苦しんでいる民は大勢おられます。私もこの博多の地で、医薬の知識を身につけ、医師としての経験も十二分に積んできたと自負しております。」
延祐: 「それはわかっておる。儂もお前のことを医師として認めておる。 
だがな、残念ながら、阿仙薬、人参、麝香、薄荷、桂皮、丁香、甘草など、これら霊宝丹の原料はこの国では手に入らぬ。大陸との道筋を確固たるものになるまでは、動いてはならぬ。今は外交の力をつけよ。京へ参った後、必ず役に立つ時が来る。」
大年: 「承知しました。父上のお言葉を信じて、その時が満ちるまで医薬術、そして外交の鍛錬に精進して参ります。」

 応永二年、陳外郎大年、ついに京へ上洛。
四条西洞院に屋敷を構えたのであった。その屋敷は杏林亭と呼ばれ医薬を求める人たちで絶えませんでした。

 時は過ぎ、応永十一年、大年は朝廷の命を受け遣明船に同行し、大陸から霊宝丹の処方と原料を持ち帰ってきた。この薬の優れた効能を賞して、時の朝廷後小松天皇から「透頂香」の名を賜った。
 しかし、当時は、漢字を読める人が少なかったものですから、
後に、家名である「ういろう」を平仮名で記したところ、この薬のことを世間の人々は「ういろう」と呼ぶようになったのでございます。
 大年は、医師、薬剤師、そして外交官としても朝廷に仕えたことから、来賓へのおもてなしに、透頂香の原料でもある黒糖を米粉に混ぜ、練って蒸した棹菓子を振る舞った。
 これが薬のういろうのお口直しにも良かったため、たちまち朝廷や幕府を始め、貴紳の間で評判となりました。
 これが和菓子としての「ういろう」の起源でございます。

 外郎家初祖延祐から四代目となる祖田は、室町幕府のお抱え医師となり、文化人としても京都五山の僧、公家達から高い評価を受けておりました。
時の将軍足利義政は、祖田の高徳を賞して、祖田の子である定治に足利氏の祖籍である「宇野源氏」の姓を授けた。すなわち外郎家が武士の名跡を継ぐことになったのでございます。

 文明十五年、定治十四歳の時、室町幕府の申次衆であった伊勢新九郎盛時、後の北条早雲こと伊勢宗瑞を烏帽子親として元服し、名前を陳外郎宇野藤右衛門定治と改めた。この「藤右衛門」の名は、代々外郎家の当主に受け継がれていくのでございます。

定治 :「新九郎様、定治めは東の国へ行きとうございます。」
新九郎:「それは、なにゆえか?」
定治 :「透頂香のためでございます。今や、京の町は諍いが絶えませぬ。 透頂香は、外郎家初祖延祐が必死の覚悟で大陸の大都から筑前博多へ渡り、二代目大年が京へ移り住み、三代目常祐、そして四代目私の父祖田へと一子相伝により受け継いできたこの家伝薬が絶えることがあってはなりませぬ。そのために、東国へ」
新九郎:「東国か、儂も考えておったわ。確かに、この頃、京の町は物騒になったのぉ。幕府やその守護大名たちのお家騒動で、この町もすっかり荒廃してしまったわ。だがな、東国も、安寧の地とは言えぬぞ。今は・・・」
定治 :「新九郎様、今は…ということは、何かお考えがあるのでございますね」
新九郎:「いつになるかは、わからんが、泰平の世を築きたい。新たな地で。それは東国と考えておる。民が健やかに暮らせる世にしたいのじゃ。豊かな土地、清い水、そして、京の良き文化も取り入れ、何よりも民の健康じゃ。いつの時代も流行病で大勢が亡くなる。定治、お主は京の文化にも明るく、医薬にも優れておる。お主の助けを求める時がきっと来る。その時まで待ってくれぬか?」
定治 :「往にし方に、外郎家二代目大年も、その父延祐から京への上洛を留保たされたと伺っております。今はその時、お声掛けいただける日を信じてお待ちいたします。」

 明応二年、ついに、伊勢新九郎は、将軍足利義政の甥である茶々丸を討伐し、伊豆国を平定。
新九郎:「定治、長らく待たせたのぉ」
定治 :「新九郎様に烏帽子親になっていただいてから、もうかれこれ二十年の歳月になります。しかし、決して長かったとは思いませぬ。これから何十年何百年に渡って受け継いでいかれるであろう。透頂香の行く末を案ずると、束の間のひと時でございます。」
新九郎:「早速だが、定治、力を貸してくれぬか。承知しておると思うが、 伊豆の国では、風病が大流行りしておる。」
定治 :「ようやく、お力になれるときが参りました。この日を待ちわびておりました。定治めは嬉しゅうございます。」
 透頂香の効き目は、忽ちのうちに現れ、伊豆の国に健やかな暮らしが戻って参りました。

 永正元年、定治は小田原へと住まいを移したのでございます。
しかし、まだ平穏な世とは言えず、戦さが絶えることはありませんでした。
 透頂香と外郎家の行く末は、この後、幾度となく苦難に見舞われますが、その度に乗り越えて行くのでございます。長い年月を経て、小田原の地に根差し、地域の人々に愛され信頼され、無くてはならない存在になっていきます。

 時代は、江戸時代中期となりますが、享保三年、咳と痰に悩まされ、
役者生命が危ぶまれていた歌舞伎役者二代目市川團十郎が、透頂香を服用するとたちまち全快したことから、感謝の意を込め、「外郎売」が登場する演目「若緑勢曾我」を創作し上演されました。

『拙者親方と申すは、お立ち合いの中に、ご存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、
青物町を登りへお出なさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して、
円斎と名乗りまする。
 元朝より大晦日まで、お手に入れまする此の薬は、昔、陳の国の唐人、
外郎という人、わが朝へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒ずつ、冠の透き間より取り出す。依って其の名を帝より、「透頂香」と賜る。即ち文字には、「すく、いただき、におい」と書いて、「とうちんこう」と申す。』
 この口上の後、透頂香を服用すると奇妙にも舌が滑らかに回り出すということで、早口言葉の長台詞が出てきますが、今ではアナウンサーや声優、俳優などの滑舌練習の絶好の題材となっております。

 時代は平成へと移り変わり、
ある時、二十四代目当主外郎藤右衛門康祐氏より甥の武氏に
康祐 :「武、儂ももう九〇になる。そろそろ代替わりのことを考えねばと思っておる。」
武  :「えっ、代替わりですか?」
康祐 :「そうじゃ、代替わりじゃ、回りくどい言い方をするのもな・・・。ずばり言うが、お前に後を継いでもらいたいと思っておる。」
武  :「えっ、私にですか、私は今銀行勤めをしております。それに、薬のことは何もわかっておりません。」
康祐 :「そんなことはわかっておる。儂が聞きたいのは、お前に継ぐ気があるかどうかだ。」
武  :「・・・正直に申します。私には荷が重過ぎます。」
康祐 :「そうか、思っておった通りの返事だったわ。だからこそ、お前に継いでもらおうと考えておる。簡単に、引き受けるという奴には渡すつもりはない。責任感が強いからこそ、『荷が重すぎる』と感じ取ったんだろ。」
武  :「外郎家に生まれ育ち、先祖代々から受け継がれてきた透頂香の歴史を知らないわけではありません。むしろ、よく理解しているつもりです。」
康祐 :「であれば、尚更、ここで絶やすわけにはいかないこともわかるな。儂もこの歳になってしもうてな、託せるのは、もうお前しかおらんのだ。」

 高齢となった叔父康祐氏からの懇願、先祖代々の思い、小田原地域のことを考え、ついに武氏は腹をくくった。勤めていた銀行を辞め、家業を継ぐこととなりました。
武  :「実は、折り入ってご相談があります。薬科大学に入って、薬剤師の資格を取ろうと思っています。」
康祐 :「何?薬剤師?早くとも、六年はかかるぞ。わかっておると思うが、儂はもう九十三歳。いつまで元気でおれるかわからんぞ。それに、仕事と学業の両立は容易いものではないと思うが、なぜ、そこまでして薬剤師に?」
武  :「仰る通り、仕事との両立は簡単ではないと思っています。私も四十五歳、この歳になって、全く勉強してこなかった分野を一から学ぶのは、時間、労力、成果を考えますと、不安がないと言えば、嘘になります。」
康祐 :「ところで、儂の主治医には相談したのか?」
武  :「はい。六年後、叔父さんが生きている確率は1%以下。時間の無駄になりかねないと言われました。しかし、叔父さんと同じ立場の薬剤師になり、同じ視点で物事を見る。そうすることで、外郎家と会社の責任を受け止めたいのです。仮に、留年するようなことがあれば、即家業を継ぐ資格を失う覚悟です。どうか私に挑戦させてください。」
康祐 :「信念が強いことはいいことだが、頑固なところは誰に似たものか。もう、止めても無駄だろう。儂もお前に無理言って、後継ぎをお願いした身だ。お前の好きなようにやるが良い。」
武  :「ありがとうございます。必ず、叔父さんがお元気なうちに、朗報をお届け致します。」

 結果は、横浜薬科大学を首席で卒業、薬剤師国家試験にも見事一発合格。晴れて、薬剤師として、康祐氏から代を受け継いだのであった。武氏の不撓不屈の精神を見届け安堵したのか、その翌年、康祐氏は天寿を全う。享年百歳でした。
 時は、平成二九年十一月十六日、報徳二宮神社にて奉告の儀を執り行い、外郎家当主二十五代目外郎藤右衛門を襲名。
 以上、一子相伝による霊薬透頂香と外郎家の伝統の軌跡「外郎藤右衛門物語」の一席、これにて読み終わりと致します。


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