東日本大震災から10年 東北地方の被災地を巡る
10年前の地震発生当時の私
関東地方に住む私の地域では
震度6弱でした、沿岸部の街だったので津波も来ました。
断水はゴールデンウィークまで続いた記憶があります。計画停電もありました。
液状化により陥没した道路、街灯やコンビニの明かり、信号までも消えた真っ暗な街の夜は今でも忘れられません。
当時は津波の夢もよく見ました。迫り来る10m以上の津波から逃れるために死体の山を登り、逃げるというものでした。当時は自分が思っている以上に精神的に疲弊していたのだと思います。
震災を経験して
震災後は被害の大きかったの東北の被災地をこの目で見なくては行けないという気持ちが常にありました。
そう思いながら10年も経ってしまったのです。
このままだと先延ばしになる一方だったので、震災に10年という区切りはない無いですが、何か背中押された感覚で行動することができました。
震災の情報はテレビや本、ネットニュースなどで得られることができます。そこで学ぶこともとても大事な事です。しかしそれらをちょっと見ただけで知っている気でいるのは違うと思いました。伝えきれないリアルな現状が被災地にはあるはずです。実物をこの目で見て感じることは写真やテレビで見るものとは全くの別物だと考えてます。学ばなくてはいけない、伝えなくてはいけないという思いが、海の近くに住む者としての使命感がどこかにあったのかも知れません。
今回の訪問場所
今回は東北地方の各地にある伝承館(震災の記録を展示し東日本大震災を多くの方に語り続ける施設)や、震災遺構(震災が原因で倒壊した建物などであるが、次世代に向けて震災が起きたという記憶や教訓のために、取り壊さないで保存しておくというもの)を何ヶ所か周りましたので以下それぞれの場所で感じた事や感想を綴っていきます。
福島県いわき市 いわき震災伝承みらい館
なかでも被災者の証言が印象的で、亡くなった方は警報が出ても「今回も来ないだろう」とたかをくくって避難しなかった方が多いと仰っておりました。警報があったにも関わらず、海を見に行くと出ていった方もいたようです。
私も海の近くに住んでますので、大きい地震が来たらより高いところへ避難しなければいけないと再認識しました。「津波てんでんこ」という言葉は胸に刻んで置かなければいけません。
ここには学校の黒板も展示してありますが、それは震災の日の午前中に卒業式が行われていて、黒板に書いた寄せ書きをそのままの状態で展示してあります。その後の事を思うと、生徒の一言一言が物凄く重く感じられました。そのひとつに『永遠というものは存在しないから、卒業しても私たちが離れ離れになることも永遠にない』とありました。この言葉は心に突き刺さりました。
福島県相馬市 相馬市伝承鎮魂記念館
印象的だったのは震災後に発見された持ち主不明のままの写真が展示してあります。入学式や卒業式、晴れ着姿などの思い出の写真です。
引き取り手が無いそうです、とても胸が痛みました。
もし本人が訪れていて自分のものがあれば受け取りますよね、とても悲しいです。
悲しいですがこの悲しみと向き合うことで津波の怖さを知ることができるので、意味のある展示だと思います。
持ち主が見つかることを強く願います。
宮城県山元町 震災遺構 中浜小学校
皆さんはハザードマップを見たことがありますか?地域の避難場所を理解してますか?
分からない人が多いのではないでしょうか。
2mの高さの津波で木造の家屋は全面破壊に至るそうです。避難所は学校などが多いと思いますがそれはつくりが頑丈な鉄筋コンクリートで立てられているからだと思います。然るべき理由があり避難所として選ばれているので避難する時は避難所を目指すのが一番だと思いました。
ここでは避難した屋上の屋根裏倉庫も見ることができます、こども達が氷点下を下回る中一夜を過ごした場所です。周りの大人達もこども達を守るために必死になってくれました。
この場所は実際に見て感じて欲しいです。
宮城県名取市 名取市震災復興伝承館
名取市沿岸部は平たん地のため5.5km先まで浸水し、壊滅的被害を受けたくさんの方が犠牲になりました。
震災前と震災直後の航空写真を見ると津波の力を嫌でも思い知ることができます。
そしてここ名取市では地震で防災無線が故障してしまい、避難の呼びかけが放送されていなかったことを知りました。
もし防災放送が無かったら・・・自分に置き換えて考えても避難しないだろうと思います。停電でテレビから情報が得られなかったら?スマホの通信が断絶されたら?どこで情報を得ればいいのか。ラジオです。
防災グッズにラジオを用意しなければいけないと強く思いました。
また、津波を知った人達の多くが車で避難したため渋滞となり全く進まない状況になってしまったそうです。
有事の際は歩いて避難し、そして避難経路を理解しておかなければいけません。
宮城県仙台市 震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎、
東日本大震災 慰霊の塔(荒浜慈聖観音)
ここ荒浜は震災の夜、数百人の遺体があがったそうです。震災前にあった住宅街は全て流されてしまいました。松林もほとんど流されてしまってます。残っている松の木の枯れ方で津波の高さがわかります。
近くでは今も尚、復興のため土壌整備のトラックが行き交い、作業されていました。
近くにお寄りの際は是非ここも訪れてほしいです。
各地を回って
津波が発生したらとにかく避難。津波は待ってくれません、時間との勝負です。そしてより高い所へです。ある学校は校庭に避難し50分待機している時に津波が来て流されてしまいました。(すぐ近くの裏山に避難していれば助かっていたと言われてます)
第一波が引いたからといって、家を確認するために戻っては行けません。第二波、第三波と連続で来ます。これだけでも知っていれば救える命があるかもしれません。
このような悲しい思いをしているのに、そんな表情も見せずに実体験を話してくれる語り部さんや、施設の人達。この人達の思いを無駄には出来ないと感じました。
あなたの住む町がもし津波浸水区域ならより一層の防災意識を、家族や友達がもしそこへ住んでいるなら少しでもこういう話をしてあげてください。
何気ない日常に震災はやってきます、防災意識が薄れぬよう、震災を風化させないためにも学び、伝え続けなければいけないと思いました。
まだまだ知らないことがたくさんあります。これからも震災に目を背ける事無く向き合っていきたいと思います。
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