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集団登校に ”コミュニティ” を思う

5月、長女が小学校に通い出して1ヶ月以上がたちます。すっかり学校生活にも慣れたようで、制服姿からも「小学生らしさ」が出てきました。

集団登校も、マンションのエントランスに集合し、10人ほどの班がいくつかあってメンバーが揃い次第それぞれ出発するというルールになっています。
初登校の日、知らない人ばかりの中不安いっぱいで列に並び、集団登校についていっていました。

先頭を歩く6年生の班長さんが、時折りちゃんとついてきているか後ろを振り返り、ゆっくり歩いてくれていました。
心配性で親バカの私は、そんな娘の姿を見えなくなるまで眺め、心に焼き付けていました。

1か月もたつと「集団登校まで一人で行く」なんて言い出したり、周りの子たちに話しかけたりと、子供の順応性はすごいなと改めて思います。

ほんの少し前まで保育園児だった娘がたった1ヶ月でこんなに成長するんだと、集団登校を見送りながら目頭を熱くする今日この頃です。

▼ そんな姿にコミュニティがダブる

ふと、娘の集団登校を眺めているとき少し前にこんな本を読んだことを思い出しました。

正統的周辺参加とは、「社会的な実践共同体への参加の度合いを増すこと」が学習であると捉える考え方です。

「正統的周辺参加」論は、学校以前からの徒弟制において、熟達者から新入りに技が伝承していく様子を観察した研究がもとになっている。
最初は下っ端の仕事をしながら、より熟達している人がこなしているより重要な仕事を見よう見真似で覚えていく。
徐々に「周辺的」な位置から「中心的」な役割を果たすようになっていく姿を「学習」と捉え、下っ端であってもその共同体の「正規メンバー(=正統的)」であり、周辺部分から徐々に参加度を増していく、という意味で「正統的周辺参加」論と名づけた。

正統的周辺参加と足場づくり

なんか難しい言葉ですが、私たちが参加しているkintone Caféなどのコミュニティにおいてこの考え方が当てはまると思っています。

コミュニティに初めて参加したとき、不安でどうしていいかわからないこともありました。そもそも参加することのハードルも高く、「参加ボタン」を押すまでに何度も躊躇したこともあります。

ですがコミュニティに参加していく中で、kintoneの使い方はもちろん、コミュニティ内での振る舞いなど中心的な位置にいるメンバーからその知見を学ぶことになります。そして新たなメンバーが入ってきたとき、自分でこれまで得た知見を伝えていく。
そんな学びと伝達を繰り返すことで気付けば自分がコミュニティの中心に近いところにいる。
その過程こそが学習だ、ということです。

人は、人やものに囲まれ、互いに影響を与えながら学んでいる。人の学びは、周囲のものや人が行動のリソースになって生じ、個人の頭の中だけで起こるのではない。学習は個人個人の中で起きるのではなく、周囲の環境とのかかわりの中で起こる

正統的周辺参加と足場づくり

私自身も「kintoneの勉強」は、一人で机でコツコツとやっていたころよりも外に出てコミュニティなどで色々な人と話し、交流するようになってからの方がより効果のあるものだったと実感しています。
それはやはり人と人との関わりの中で起こった学びが、ツールの「勉強」としてではなく、考え方や振る舞い、伝え方といったいい「学習」になっていったのだろうと思っています。

▼ さて親バカ話に戻りましょう

初登校の日、知らない人ばかりの中不安いっぱいで列に並び、集団登校についていっていました。
先頭を歩く6年生の班長さんが、時折りちゃんとついてきているか後ろを振り返り、ゆっくり歩いてくれていました。

6年生の班長さんも6年前は不安いっぱいで列に並び、先頭の班長さんについて歩いていたことでしょう。
それが翌年新1年生が入り、だんだん列の後ろになり、最終的には班長になって下級生を連れて先頭を歩くようになる。
ちゃんとついてこられてるかな、車が通るから気を付けてと気を配りながら。

人と人、周囲の環境の中で起きる学習とはこのことなんだなとその時思いました。

これから6年間、宿題、英会話、習い事など、「勉強」しないといけないことはたくさんあるけれど、不安いっぱいで並ぶ新入生にやさしく声を掛けて、時折後ろを振り返りながらゆっくり歩いて集団登校を引っぱっていけるようなお姉さんになってほしい。
あの時自分が感じていた不安、それが和らいでいったこと、和らげてもらったことを伝えられる先輩になるといいね。

逆上がりや宿題なんかよりももっと大切なことを学んでいってほしいと思う、パパったんなのでした。。。

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