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この世の見え方について

 先週、母の還暦祝いで実家へ出向いた時に、母が前世などの話をしていた。
話を交わす中で、自分の思考の一部が漏れ出たのでここにまとめておくことにした。
 前世やら来世やら、その言葉を使って愛や人生を語るのはとても素敵な事だと思うし、その言葉を使う人を批判するようなものではないのであしからず。

 私は、この世はもったりとしたひとつの大きなかたまり、エネルギー体だと思っている。
私たち人間や動物、土に至る全ての物質は、エネルギー体が水飛沫のように千切れ、薄く膜を張り、形をもったものだ。
その大きなかたまりは私たちの生活のすぐそばにあって、私たちが人生などの活動を終えれば薄く張っていた膜が消え、そしてまた大きなかたまりにもったりと戻る。と言うのが私の認識するこの世だ。
エネルギー体に還れば私のこの思考はすっかりと消えてしまい、そのときにようやっと私は私から解放される。

 だからこそ、私の人生に前世や来世などはないと思っている。
ましてや天国も地獄もないし、更に言えば今のこの瞬間がただ存在して消えていくだけのものだ。
そう思うことで些細な困りごとはまるごと無視して生きていたりもする。
私に悩みがなさそう、ポジティブだねと声をかける人は、おそらくこの生き方が楽観的に映るのだろうな。
 でもそれはそれとして、来世も関係があるといいねだとか、今この瞬間を噛み締めて伝え合う言葉は、愛だなあと感じて心がじーんとするんだよね。

 何でも願いを叶えてくれるご都合主義の神様なんて存在しない。
それでも神という得体の知れない大きな言葉に当てはめるものを聞かれたら、きっと私はこの世と、この大きなかたまりの話をするのだろう。
そしてそれを認識している私たちの意識そのものも、本質としては同じものだと言うのだろうな。

 私はその得体の知れない大きなかたまりを認識している私たちをこの世と同じように愛しているし、今この記事を読んで認識している、あなたの世界を持つあなたを、同じ質感で尊く愛おしいと思っている。
私の「全てのいきものがうっすらと好ましい」という気持ちは、ここが起源な気がしている。多分ね。

 考えたことを事細かに言語化するのは人間特有のものだと思うし、いつかの未来で私たちの考え事が消えてなくなってしまうのであれば、今こうして思考することが生きるということなのだと思う。

 だからこそ私はこうして言葉に残すし、また未来の私が読み返して添削してくれる事を期待している。

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