「男の人と結婚して欲しい」という母親の呪いにいつまでもかかっている
「おゆちゃんには男の人と結婚して欲しいな。」
母親がそっと口にしたそれを、わたしは20数年経った今も鮮明に思い出すことができる。何の気なしに発せられたと思われる言葉だったけれど、わたしにとってそれはとても強烈なひと言だった。
きっかけはテレビを見ている時だった。同性愛者を扱った番組は、ふたりの馴れ初めやお互いの葛藤などを描き、最後は「ふたりは性別を超えて愛を超えて結婚しました!」というふうに、めでたしめでたしで締められたものだった。そして母が冒頭のひとことを放った。
それから20数年が経ち、わたしには同性の恋人がいる。
9つ年上の、よく笑ってよく泣く、とってもかわいらしい人だ。共通の趣味がきっかけで出会い、しつこくアプローチし、それに折れたやさしい恋人はわたしとお付き合いしてくれることとなった。
付き合って2年と半年が経つ。そんなわたしたちは、来月の末にパートナーシップを結ぶ。
いまの日本では、同性婚は認められていない。どんなに愛し合っているふたりであっても、同性どうしである限り、結婚することはできない。これに対して悲しむ人、嘆く人、憤る人、いろんなひとがいる。わたしはといえば、大好きな恋人と結婚ができる日本になって欲しいというひとつの願いを掲げながら、もしそうなったとして、本当に結婚に踏み出せるのか? という臆病な疑問がある。
「おゆちゃんには男の人と結婚して欲しいな。」
呪いのように頭にこびり付いたそれに、今でも苦しめられている。もし男の人と結婚しなかったら。結婚する相手が女の人だったら。大切な彼女だったら。母親は怒鳴るのだろうか。わたしを殴るのだろうか。泣いて反対するのだろうか。それともただ静かに祝福してくれるのだろうか。
わからない。
わからないから怖い。もし結婚することができる未来があったとして、わたしはそれを選ぶことができるのだろうか。
恋人はたまに、わたしの顔を慈しむかのように見つめたあと、「結婚できたらいいのにねえ」と口にする。そうだねえ、とわたしは返す。その言葉の裏で、迷いがあること、葛藤があることを彼女はきっと知らない。
わたしたちは結婚できないけれど、もし結婚できたら、ということをたまに話す。
苗字は彼女のものがいい。なぜなら気に入っているから。いいよ、わたしは自分の苗字に思い入れなんてないから、あなたの苗字になろう。同性どうしだから子どもは難しいけれど、きっと2人の子どもはとってもかわいいと思う。どちらに似るのかな?女の子かな、男の子かな。
そんな他愛もないことを、料理を作りながら、頭を洗い流しながら、布団の中で微睡みにつきながら話す。
そんな時間が結構すきで、夢物語は夢物語らしくどんどん膨らんでいく。
わたしたちは結婚ができない。
それに対して、おかしいとか平等じゃないとか、そういう意見を持つ前に、葛藤が邪魔をしてしまう。当事者として、失格とも思う。必死に活動しているひとたちを知っている。わたしはどうしたらいいのだろう。呪いのようなひと言が、いつまで経っても頭から離れない。
いつか結婚できるようになったら。
その時はお互いにプロポーズし合うのがいい。今でもプロポーズの真似事のようなことをして笑いあっているけれど、きっと本当のプロポーズはそんないつもよりもずっと緊張するだろう。指輪はどこのものにしよう。式は? 誰を呼ぼう。そのときにわたしは母親に招待状を送ることができるだろうか。きっと迷ってしまう。
いつか結婚したら。
幸せに笑っていて欲しい。ふたりでいつまでも仲良く過ごしていて欲しい。いま住んでいるマンションよりも少し広い部屋に引っ越してるかな。彼女は一軒家に憧れがあるといっていた。家を買っているかもしれない。玄関には花瓶を置いて、季節の花を飾ろう。
そんな未来があったら、嬉しいのかもしれない。
冒頭のことばに、わたしはきっとこれからも悩み続ける。どうしてそんなにひどいことを言ったのと今なら思う。傷のひとつとなってしまったのだから。
ただ、ふたりで幸せになれたらいい。それだけは母親であっても、邪魔されたくないと思う。
わたしたちはわたしたちで幸せになろうね。
いつか恋人がわたしにかけてくれた言葉。それを胸にしまって、ふたりのしあわせを描けたらいいなと思う。