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「語れてしまう」という危険性。

以前のnoteで

「教育は、みんなが語れるという良い面もあれば、誰もが語れてしまうという危険性がある。」

ということを言った。

「語れる」「語れてしまう」は、全くもって意味が違うと思う。

以前、YouTubeであるインフルエンサーのこんな発言を見た。

「飲み会などで使われる「乾杯」は、実は戦後GHQに「完敗」という意味で言わされたらしい」

いやいや、そんなはずないだろ!と思ったが、コメント欄などを見てみると一定数信じている人がいた。

これが「語れてしまう」の危険性だと思った。

SNSが普及して、僕らは情報過多の中で生活をしている。

もしかしたら、自分の目や自分の肌で直接見たり感じたりすることよりも、ネットに広がった声や動画に触れることの方が多いのかもしれない。

自分が直接経験したことがなくても、誰かの経験に触れることができる。

自分の頭で考えていなくても、誰かの考えに触れることができる。

それを、あたかも自分ごとのように簡単に「語れてしまう」

どんどんどんどん、リアルな生身の自分との乖離が生まれる。

それは、リアルな生身の自分を介すことがなくなるからだ。

自分の五感で得たもので構成されていないからだ。

知識や理論だけを一丁前に語っている人が、胡散臭く感じてしまうのは、きっとそのせいだ。

僕は、やっぱり「現場」に生きている人、触れている人の言葉には魂がこもっていると思う。

「現場」とはリアルだ。

説得力を持つ人は、SNS上だけで生きていない。

今のSNS上は、「エコーチェンバー現象化」していて、すごく気持ちが悪い。

エコーチェンバー現象

特に、数字を持ったり、影響力のある人の声を過信しすぎている。

本当に正しいのかどうかを、自分で検証する機会を失っている。

声の大きい人が言うことに、頼りすぎている。

教育の話で言えば、

「今の学校や教室は、昔と何も変わってない」

とか、いろーんな人が言うけど、きっとそう言う人たちは今の学校現場に足を運んだことがないのだろう。

僕は、たまにいろんな学校現場に足を運ばせてもらっているけれど、少なくとも、僕が十数年前に通っていた学校や教室の風景とは違う。

でも、世間一般の認識では、

「昔と変わっていない。」

現場を見てなくても、世間一般の声やイメージで、そう「語れてしまう」

先生たちに対してだって、そうだ。

「教師はブラックだ」

果たして、本当にそうなのか。

本当に、自分の目で先生たちの働き方を見たり、先生と話したことがあるのか。

もちろん、激務が理由で病気になったり、命を落としてしまった事例はある。

これは、重く受け止めなければいけない事実で、正しい方向へ改善されるべきだと思う。

ただ、僕が触れたことのある先生たちは、自分の仕事に誇りを持って、悩みながらも前向きに頑張っている人が多い。

(だからと言って、誰かが命を落としている以上、それに蓋をしてはならない)

そのような人と触れると、SNS上で言われている教師の実情とリアルはすごく乖離している気がする。

ただ、一つの事例が、あたかも全体がそうであるように錯覚していないだろうか。

みんな、マクロに、大雑把に捉え過ぎているような気がする。

みんな、自分自身の五感で検証することを放棄しているような気がする。

みんな、主語が「わたし」ではなく、「誰か」になっているような気がする。

だから、語ったような気になって、「語れてしまっている」

でも、実は中身が空っぽ。みたいなことはよくあることだ。

旅をしている人の言葉に、重みを感じるのは、きっと彼ら/彼女らは、自分の五感で得たものを、「わたし」を主語に「語っている」からだと思う。

狭い、四角い画面の中に生きるな。
広い、丸い地球の中に生きろ。

自分への戒めも込めて。

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