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あと半年で私はどこまで変われるかな?
6月30日今年も残り半年。ふと私はこの半年どんな風に生きていたかと気になりだして、どうせならnoteにでも書いとくかな。なんて思い書き出している。結局自分でnoteの書く量を毎回増やしている。まあわたしの振り返り兼日記がnoteだし。てな感じてこの半年を終えて思ったことを書いていく。正直やることはまだまだあるが、放棄している。やってもやっても終わらないので、発狂したいところではあるが、とりあえず心落ち着かせてnoteを書く。
書くにあたって、今年に入ってからのnoteを振り返っていた。noteの数だけ見ても割といろいろな経験をさせてもらえていた。あっという間に過ぎる時間も意識して取り組むのと取り組まないのでは振り返ったときの気持ちの持ちようが違うなと感じた。
2024年になったのでnoteを書いてみた私で始まっていた今年のnote。2024年の目標や昨年度の反省がつらつらと書かれていた。つい最近のように感じる出来事なのにもう季節が1つ変わっていた。
なにも頑張れない自分に嫌気がさしている時期、そろそろこのままじゃだめだ、変わらなきゃ、決意を新たにすることは無駄というのは分かっていたけど、決意を新たにすると同時に、何かを始めようと思い自己分析を始めたのがちょうどこのnoteを書いた時期。自分のことを理解することから始めようかなと。
自分のことを知ることで生きやすくなることを今実感している。そして、俯瞰視しやすくなることにも気づいた。そして何より、負の感情の処理をうまく処理できるようになることにも気がついた。
イラつくだとか悲しいだとかをそのままにして勝手に落ちこぼれるのではなく、なぜ悲しいのかなぜイラつくのかを分析するようにしている、その感情はどこから生まれたのかをたどることで同じような出来事が起こったときに、感情が生まれた理由を知っておくと処理しやすい。負の感情になる前に自分の中で飲み込めることに気が付いた。
これは大学生活で私が意識した自分で考え、たくさんの意見を聞きながら最適な答えを見つけ出すという、この一連の考え方や行動が生きてきたように感じる。
最近思うのだが、答えのない出来事が大人になればなるほど多いように感じる。特に人間関係など、それぞれが生きてきた環境も経験したことも違うのに、思考がそろうことがまずもって少ないだろうということを気が付くまでに時間がかかりすぎたな。いくら自分が正しいと思っていてもそれはほかの誰かからすると不正解なことや、正解と分かっているけどあえて正解を選ばない、正解も不正解もつけないなんてこともある。
私は無駄な正義感に溢れていて、無駄にね無駄に。白黒はっきりさせたがる性格がいつも私を苦しめていたように感じる。その正義感の押し付けであったり、正しさがすべてではないことも大人になるにつれ学んだことだ。
私間違っていないのに何でこんな結果になったんだろうな。みたいな事象を多く経験した。それは他人にベクトルが向きすぎていたからだと思う。自分がどうあるべきか、自分がどういう状態でありたいか、どういう人間でいたいか。に関してだけ軸を持っていればいい話であるし、そういう考えになったとたん人に対しての意見に、自分の無駄な正義感や正解を押し付けたくなる感情は格段と減った。
先生と前面談したときに、最近は平等を求める人が多いが、自分の目的遂行のためにそこを気にする以上に目的を達成したいというやる気や気力に満ちた人が減ってきている。という話。正直チームのメンバーがさぼろうが、仕事をやらないだのなら関係のない話。放っておけばいいのだ。自分を目的の状態に持っていきたいというのならば、自分には今何が出来るのかを考えなればいい。という思考の1つ。
この話とても印象的で、私にとってはとてもありがたい言葉とともに自分の凝り固まった思考に柔軟性が足されたような気がした。(笑)
今まで結果を追い求めるなら自分がまず努力しよう、そして人に対して指示を出さないと説得力がないな。というのは分かっていた。正直スポーツはそれでよかったけど、大人になるにつれて、結果じゃなく、報酬であったり見せ方の上手いフリーライダーや人から好かれやすい仕事しない人だとかが、得をしているように見えて自分の頑張りがそこに吸い取られているような気持ちをもつようになった。
もともと目標や自分のありたい姿のために頑張っていたのにいつしか、見方を変えてしまっていたんだな、視野が狭くなっていたんだなと感じた。この話を聞いてから、自分が常に頑張りたいそれはほかの誰かのためにというよりは一番は自分のために頑張りたいと、何をするにも自分がどうありたいか、自分に対して一番ベクトルを向けるようになった。
この思考のおかげで何をしていても必ず自分のためであって、どんな学びがあるかな、自分の目的やありたい姿のために足りないものは何かな、とさらに考える癖がついた。そして人からの指摘はきちんと自分の中でかみ砕いてから、もし不満な点があるなら、感情としてではなく、ここがどうも腑に落ちないなというのは意見として質問しよう。という風に考えるようになった。
自分のことを大切にしてあげたいという目標を立てた時の私は、自分のことを悲観的に見ずに認めてあげよう価値は誰にでもあるんだから。みたいなありきたりな自分の認め方でしか認めようとしていなかったが、グループワークを通してであったり、先生の話であったり、での自分の認め方が一番自分のことを許容してあげれると思った。自分にいい意味で期待することが出来る、人と比べる必要のない自分の認め方のように感じた。
これも半年前の私にはなかった思考法であるし、傍から見たらまだまだかもだけど、自分の中では十分に成長を感じれることにつながった。
現在では、自分に向いているバイトと労働環境も見つけることができた。とても働きやすく、成長も感じれている。自分が変わる意思はもちろん大切だが、自分が頑張ろうと思わせてくれる、頑張りがきちんと結果に残る環境に身を置くことの大切さも同時に学ぶことが出来た。向いていないと思い避けてきたコールセンター業務に思い切って飛び込んでみてよかったなと思う。これも私の行動力が招いてくれたことだから、何をするにしてもやらずに最初から無理と決めつけないようにしようと思った。
ゼミの活動もみんなにうまく仕事を任せながら、自分が何が出来るかを考え、みんなの意見をしっかり聞くように心がけて活動するようにしている。まだまだなんだけどね。それでも意見やアドバイスをもらったときにはきちんと自分に落とし込むようにこれからも意識したい。
半年前の自分でさえここまで変われるとは思っていなかっただろうな。感動しているはず。伸びしろはいくらでもあるから毎日少しでもいいから前進すること、周りの感謝を忘れないこと、常に学ばせてもらう姿勢を忘れないことを残り半年、いや死ぬまで心にとどめてね私。という言葉をかけておきます。
今ゼミでやっている企画ほんとうに大変で社会人の方の凄さを痛感している。やってもやってもトラブルが続く。でまた考えるの繰り返し。本気でいつも心のどこかで逃げ出してやろうかなと考えながら作業している。相変わらずみーみー駄々をこねる癖は治らない。でも逃げなくなっただけ成長したよ私。体と心死なない程度に立ち向かうんだ私。というかなんでもありがたいと思うとだいたい頑張れちゃうよね。頑張れるの当たり前じゃないからね毎回いうけどちゃんと頑張るんだよ。とまた自分に言い聞かせて、半年後2024年の総括をするときにでも励まされるようにしておきます。
そしたら半年生き延びた私とこれを見てくれている人もお疲れさまでした。残り半年悔いなく楽しくまた生き延びましょうね。そしたら、また明日からぼちぼち頑張っていきましょう。幸あれ。☘️