オシャレは顔パス‥じゃない側
”オシャレ”のむこうがわ
前回「言い得たり!」みたいな したり顔で
「オシャレは顔パス」なんて言ってみたけれど…
どうだろう?
「"オシャレ顔パス"会場」の外では
一体どんなことが繰り広げられていて、
どんな可能性があって、
なにを見失ってしまうんだろう?
10代後半~20代前半ころは
「オシャレにあらずんば人にあらず」の信条でしたけど(!!)
その”オシャレ”ってなに?と問われれば、
結局「(自分が)わかる、理解できるもの」
自分の好み=自分の価値観ってことなんだよな。
好みと価値観
十人十色で、人によって”おしゃれ”の好みと価値観は違う。
そもそも「おしゃれ」とか「装う」の優先順位が
とても低い(興味ない)人もいる。
こんな”オシャレ話”したら
「ゴチャゴチャうるさい!」って言われる可能性もあるだろう。
小学校の友達
それでフト思い出したのですが、
小学校の時って「おしゃれ」で人を見てなかった気がする。
なんとなく話&遊びのムードが合うような子たちと仲良くしていた。
悪口も言って仲間はずれにして、仲間はずれにもされて…
ああ、そうね…「仲間」って感じ。
「友達」と呼んでたけど「偶然同じクラスだから」以外に深い理由がなかったと思う。
あんまり思い出せない。
そうこうして40年経った今でも続いている人もいる(幼馴染だ)。
それでね言い切ると、そういう人
「大人になってから初めて会ったとしたら友達にならなかったかも」
なんです。
見た目ってものはサ…
その人は
私が大人になってよく居る見慣れた界隈(主に職場)には いない感じで。
私は「趣味の店・雑貨屋」が職場だったから、
周りは「趣味主張」(あえて”主義主張”ではなく)を貫く人が多く
自分もそのテイスト(趣味)にまみれていた。
そんで、大人になってからこそ
”自分がわかる、自分が理解できるものがオシャレ”
となった。
(”オシャレは顔パス”黎明期)
一方で「ファッション業界」に身を置く
「おしゃれな人」がとても苦手だった。
だから、洋服を買いに行くのに勇気がいった。
「お店に行ったら上から下まで判定される」と
ひるんだ。
「オシャレプロ」ならではの見識やルールに
ひるんだ。
「これにはコレ(を合わせる)」と言い切れる自信が怖かった。
(”オシャレは顔パス”受難期)
…と、以上の恐怖は私の脳内が作り上げたもので
「だれもそんな判定してない」のかも。
そうやっていつも自分の中に「分け目」ができる。
「分かる=分けられる」その境界線が「分け目」なんだ。
オシャレに費やす時間が違うんだから(洋服屋さんと私)
そりゃあプロは「自信」だってあるでしょうし、
「これにはコレ」と言い切るのは
あくまで”その人の”好みもあるでしょう
(絶対的ルールはない)
大人になってからの友達
それでサ、私は家族を持たない独り身なので
大人になって新たに知り合う人は職場に偏りがち。
周りはなんとなく”似たムードの人たち”で一杯になった。
話を幼馴染に戻す。
私の幼馴染は、服が、持っている小物が、私とは全く違う。
例えば、100着服があって私の好きな順に左から並べたとしたら
一番右の服(つまり一番苦手)を選んで着ているような感じだ。
「どうしてよりにもよってソレ選ぶんだ」って目をひんむく。
私の上から目線マンマン(そんな言い方あるのか)だ。
私は大人になってから、そういう人に積極的に声がけした記憶がない。
だって”オシャレが顔パスじゃない”んだもん。
「分からないから声かけない」
(”オシャレは顔パス“興隆期)
だけど、すごいんダ!
だけど、ちっちゃい時から知ってる歴史(幼馴染)っていうのは
・愛着具合(なれあい)
・ダメ具合(あらさがし)
・「自分にできないことが出来る」具合(称賛)
とかが見事にブレンドされていて、
「なんでその服ヨ!」っていう私のナメた視線を軽く越えてくる。
ちっとも”オシャレ顔パス”じゃないのにフリーパス!
きれいごとだけじゃない
”オシャレは顔パス”
”幼馴染はフリーパス”
どっちも言い切れない。
ただ、ネットでこんな話を見かけたヨ。
”着ているワンピースがかわいいのでどこのか知りたくて声をかけました”と言われた人が
”おしゃれは世代を超えて、人をつなげる”って言ってたよ。
フム「オシャレは顔パス」だ‥と合点がいったのだった。
安心と実績のパートナー
うさん臭い会社のキャッチコピーのようだ
”オシャレは顔パス”な世界もある(安心)。
”そうじゃないのも一興”って、
考え方のオシャレ?を楽しむ世界もある(実績)。
(おささなじみは後者だ)
なにがオシャレなのか…
服だけじゃないのよって話。
その地平は果てしない。
ノーボーダー!
ノーサイド🏈って話か?
以上「オシャレは顔パス」場外からでした🎤📻
表:書いたもので「恥ずかしさの先頭に立つ!」 裏:読んだあとに「なんとはなしにおしゃべりしたりお散歩したくなるような…」そんな”かの地”まで帆走おねがいします。