【読了】『なぜ戦争をえがくのか 戦争を知らない表現者たちの歴史実践』大川史織/みずき書林
読み終わった。
本はすっかりくたくたになり、手元に届いたとき「うつくしい」と絶賛したトレペカバーはほんのりぼろぼろになっている。なんとなく惜しい気持ちもあるが、これでこそ「本を読んだのだ丹念に」という気持ちになる。これが重なっていくと、本はどんどん壊れていく。
子どもの頃、角川文庫から出ていた鳥山石燕の妖怪図の背が壊れるほど読み込み、買い直したことを思い出した。今は、修理することを覚えている。──そんなことを考えながら、ボロボロになった表紙を改めて眺めていた。
うつくしさが損なわれるとき、その瞬間、風景に意味が見いだされるような感覚は、本書での小田原のどかさんとの対談での“彫刻”とほんのり重なるところがある。
ボロボロになった表紙は、かつてあったうつくしさや生活が損なわれた、戦争というものの暴力を想像する。
表紙の変化ひとつとっても考えさせられる本著を読む時間は、ひじょうに有意義な時間だった。……こう書くと尊大だ。とても良かったのだ。ひとこと「私はこの本を読んでよかった。読まずにいる人生より読んだ人生で良かった」と本を閉じて思った。
自分が歴史や戦争(アジア・太平洋戦争を指す)を表現するときのヒントになったし、共感の極まる場面も多かったし、純粋に表現者たちの想いやことばに濃厚に触れることのできる一冊だった。この本を教えていただいたSNSのフォロイーさんにも改めて感謝を申し上げたい。
しかし読んでいて気になるところ、参考にしたいところ、共感したところ、控えて付箋代わりに挟んでいたら天がモリモリになってしまった。はじめは付箋にしようと思ったが、付箋ではなんだかそのまま忘れてしまうような気がして、気になるところを複写してメモとして挟むことにした。
近いいつか、もしかしたら遠いいつか、自分がまだキャラクターをとおした“歴史実践”を続けていて迷ったとき、この本は私の頭の絡まったコードをほどくことを、きっと助けてくれるだろう。そう思う。
ひとつひとつの対話について感想を書いてみたいと思ったが、結果的に私にはお守りにすることしかできなかった。どの対談もどこか琴線に触れるところがあって、中でも特に動かされた対談をあげておこうと思う。断っておくけれど、10の対談も大川さんのエッセイ部分や旅の記憶も、どれも素晴らしいものである。
- 小泉明朗「逃れようのないものへの違和感や怒り」
- 武田一義✕高村亮「そこにいたであろう人を、みんな肯定したい」
- 土門蘭✕柳下恭平「書くことでたどり着く、想像の外へ」
- 小田原のどか「失敗の歴史、破壊される瞬間と、眠ってしまう身体」
- 畑澤聖悟「四隻の船と、青森から航路をひらく」
そして何より、思想面が激しいゆえにこういった書籍で気持ちが折れがちな私にとって、この本を読もう、読めると思ったのは大川史織さんの「はじめに」での「〈忘却としての戦後〉の中で」。
このことばでこの本を読もうと思ったし、折れそうになるものも(やっぱりぶつかって折れてしまうことはあるけれど)もっと〈知らない〉をわかりたい。知らないことをわかりたい、触ってみたい、そういう意識で他書に触れることもできた。これまで自分が得た経験やおこなうフィールドワーク、すべての根幹足り得る一冊になった。
この本を読めたことは幸福だ。
なんとなくうまい言葉が見当たらないのが恥ずかしい限りだが、読んでよかったと思う。
私はそれを“幸福”とした。
余談として
本書は出版が2021年のものである。私が手に取る3年の間に、コロナ禍から開けたと思えば、世界はふたたび戦争というものが、肌がひりつくほど接近する時代になった。
身近なことで言えば、これを読み終わるころには呉市から製鉄所がなくなっており、跡地に迷っていたら防衛拠点構想が積極的に防衛省から打ち出されている。議論はこれからだそうだ。そして広島市では旧被服支廠が文化財に指定された。平和記念資料館ではオンラインチケットの導入が始まった。朝から晩まで広島も宮島もひっきりなしに人が訪れて、過去最高を打ち出し続けている。
あらゆることが、あらゆる方面で胎動していることを感じる。
いま、こういった本が編まれたらどんな本になるだろうか。大川さんは、この対談をされた方はどんなおもいで現在を視ているだろうか。
そんなことも、考えた。
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