異常なほどにまっすぐな愛に突き進むきみをぼくはどう捉えたらいいのだろうか

タイトルに意味はありません。

昨日ひさしぶりにメゾンブックガールの音楽を聴いた。
友人に会いに行って帰りが遅くなった深夜の帰り道。車の中で大きな音を出しながら、変拍子のリズムに没頭した。

北海道に帰ってきて5年。もう東京時代のことは記憶の彼方なんだけど、あの頃ひたすらに反復した行動や感情が、自分の柱を形成していたことに振り返ると気がつく。

その繰り返しで人間は年輪を厚くしていくのだろうか。

今じゃ散歩好きとか、ゆっくり歩こうとか、スピードを遅めることに価値を置いてるんだけど、あの頃はひたすらに速歩きして、アイシールド21のように人混みをすり抜けて、時には車道を駆け抜けながら、タワレコに向かう最短ルートを駆け抜けていた。

身体はずっとあのときの感覚を忘れられないのか、あの頃のなにかを求めてしまう感覚のときがある。なにを手にしたいのかもわからない。ただひたすらに「あの頃」を探してしまう感覚と言ったらいいのだろうか。

でも、もう「あの頃」が手に入る日は来ない。もうどこにも存在しない。推しはみんな卒業したし、好きだったグループも解散した。そう、すべてのものに終わりはくるし、その終わりは突然やってきて、こう告げるのだ。

「僕の名前も2つに切って」

歳を重ねないとわからないことがたくさんある。この表現すら抽象的で遠慮がちな表現だけど、長い年月はとても残酷で、人間というものの奥深さと愚かさを教えてくれる。

なにかをやり遂げるということは、やり遂げる瞬間には立ち会えない。しぬまで維持することが唯一無二の「やり遂げた」ことだから。

終わることは人間にとって大切なんだろう。抱えきれない色んなものを物語に落とし、本として記憶の棚にしまい込む。大切なものはいつでも取り出せるように一冊の本として持ち歩いたほうがいい。終わったことでなければ人に伝えることはできない。やり遂げることは自分だけしか楽しめないものなのだ。面白いことは出来ることなら、他人に伝えられたほうがいい。その方が自分はこの世界に残り続けることができるのだから。

ブクガ的なもの(メゾンブックガールのように、没頭し続けることができて、未来永劫、そのカテゴリにおいて、自分史上最上が塗り替えられることがないもの)が人生でいくつ出来たのか。それが面白い人生を生きられたかどうかの重要な指針になるのかもしれない。

仕事が出来る人間になることを目指したときもあった。こんなやつがそんな人間になれるはずもなかった。今はどれだけ物語に参加して、本をいくつ棚にしまい込めるのか。そんな生き方に興味を持っているのかもしれない。現時点では。

ハリー・ポッターは大人になればなるほど、物語がつまらなくなったと若者が言ってた。自分の道もそんなもんだろうと思ってたけど、あんまりそんなことはなかった。大人になればなるほど、玄人好みな物語に参加している気がする。面白いことは無限にそこら中に転がっている。それを拾って食べるかどうか、それだけだ。

自分の棚の中には、あといくつ本が増えるのだろうか。数を増やしていくことはあんまり楽しみではない。一冊の本をつくるだけでも相当苦しみを重ねて生み出しますからね。もうボロボロですよ、こちとら。

お気に入りの本が何冊かあればいいだけなのに、そんな本は簡単にできるわけじゃないし、読み込めば読み込むほど面白くなっていくものもある。だから作ってみて、作品をこの世に生み出してみて、はじめて物語が面白いかどうか判断できるのだ。評価されるのは何百年後かもしれない。

本の中の少女は、いつでも本能が湧き出てくるかのように笑っていた。