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情けは武士の道

『馬』には絶命するまで走り続けるという本能があるそうです。

 
 これは今からずいぶん前、オリンピックであった、ある日本人と馬のお話です。

 1932年アメリカのロサンゼルスでおこなわれたオリンピックに日本の馬術チームが出場しました。馬術総合2日目に出場したのは日本馬術チーム主将、城戸(きど)選手と、その愛馬「久軍(きゅうぐん)」。

 馬術総合2日目、クロスカントリーは、32㎞の距離を全速力で駆け抜け、その間に柵や水壕など50個もの障碍(しょうがい)を乗り越えるいう、人馬ともに過酷な耐久競技です。

 スタートと同時に疾走する城戸選手と久軍。まさに人馬一体となり、次々と障碍を乗り越えていきます。

 久軍はこの時19歳で、人間の年齢でいうと7~80歳くらいの老馬です。 当時はまだ飛行機で渡米できない時代です。日本からは船で馬と一緒に渡らなければなりません。その期間も1か月と長いものでした。

 馬はいつもと違う場所に長くいたり、外を歩けなかったりするだけで、弱ってしまい、中には死ぬ馬もいます。アメリカにたどり着くまで、日本の馬術チームは着きっきりで馬の世話をしなければなりません。久軍のような老馬がアメリカに無事について、試合に出ただけでも大したものでした。

◇ 

 城戸選手と久軍はとてつもない速さでゴールへ突き進んでいきます。ここまで無過失(ノーミス)!ゴールすれば金メダルかもしれません!

 大歓声が人馬を包みます。

 まさかアメリカで日本の馬が勝つなんて!それはもう大変なことです!快挙です!日本中が喜び大変な名誉を受けることでしょう!

 障碍をあとひとつ、あとひとつだけ越えればゴール、というところでそれは起こりました。

 久軍の全身から突然滝のように汗が吹き出し、息もとぎれとぎれになって、鼻をふくらませて、かろうじて呼吸しているような状況でした。

「がんばれ、久軍!あと少しだ!」
 城戸選手は手綱を握りしめ、右手で大きく鞭(むち)を振り上げました!あと一回鞭を使えば、おそらく久軍は最後の力で目の前の障碍を乗り越えられることでしょう。

そのとき、

久軍の馬銜(ハミ)から城戸選手の手綱に伝わる感覚。

「久軍は限界。このままでは死ぬ。」

 城戸選手は振り上げた鞭をおろし、手綱をゆるめました。ゆっくり障碍の前で馬をとまらせ、なおも最後の障碍を乗り越えようとする久軍を御し、そしてついに下馬しました。

 城戸選手は久軍の顔をみつめ、そしてぽんっとたてがみを触りました。

「何が起こったんだ?!」

 観客はあっけにとられました。ここまで無過失の城戸選手がなぜそんなことをしたのか、誰もわかりません。ある人は悲鳴で頭をかかえ、ある人は理解できないといった感じで両手をひらひらとしました。

 そんな観客の間を城戸選手は久軍を引きながら去っていきます。
 
 久軍は城戸選手の肩に顔をこすりつけ、その目からは涙がこぼれているように見えました。

 下馬は失権。城戸選手と久軍のオリンピックは終わりました。

 馬術は人が馬を信じ、馬もまた人を信じていないと決して良い結果が生まれない競技です。人がいくらうまくても、馬がいくら優れていても、そうなのです。

 城戸選手と久軍はいくつもの試合を共に戦い、乗り越えてきた戦友でした。城戸選手は目先の勝利よりも、名誉よりも、大切な方を選んだのです。

 目撃した観客の口コミや新聞により、瞬く間に全米にこの事実が伝わりました。

 そしてこの崇高な「愛馬精神」に感銘を受けたアメリカ人道協会がこれを称え、ロサンゼルスの町はずれの「友情の橋」と呼ばれるそのほとりに記念碑を建てました。

「城戸選手は愛馬を救うため栄光を捨てて下馬した。彼はそのとき、怒涛のような喝采ではなく、静かなあわれみと慈しみの声を聞いたのだ。」と英語で記されています。そして日本語で「情けは武士の道」と、書かれています。

 やがて日本とアメリカは戦争を始めますが、そんな戦争の中でもこの記念碑は壊されることなく、その地に残りました。

おわりに

 2021年夏、前年延期となった東京オリンピックが開催され、東京馬事公苑において馬術競技が行われました。城戸選手が参加したロサンゼルスオリンピックから90年の歳月が経っております。現在でこそオリンピックは平和の祭典ですが、当時の時代背景から「馬術は軍事力」と捉えられる側面があったので、国の威信をかけた戦いであったと思います。

 ここに登場する城戸選手とは、城戸俊三氏のことです。陸軍騎兵中佐で、陸軍騎兵学校の教官も務めた方です。昭和天皇や現在の上皇陛下に乗馬指南したこともあり、黎明期の馬術界の第一人者です。

 クロスカントリーは障碍の前で立ち止まったり、回避したりすると過失となり、減点されます。しかし障碍は固定されおり、目測や馬の操作を誤れば人馬ともにただではすみません。時速30~40㎞で疾走し、常に危険と隣り合わせの競技です。

 実はこのときこのクロスカントリーに出場予定だった馬2頭がコンディション不良で出場できなくなった関係で、急遽翌日出場予定の久軍が城戸氏とコンビを組むことになったそうです。

 ただ、このコンビは急造ではありません。前回の1928年アムステルダムオリンピックに出場し、記録は21位ながら日本馬術界を切り拓いたコンビだったのです。 

 きっと前回大会の雪辱を期す想いはあったでしょうが、城戸氏は絶命するまで走る馬の本能と、長年コンビを組んだ久軍の性質と年齢をよく理解していたのでしょう。城戸氏は下馬したあとも久軍を他の人に任せず、自らケアしたそうです。

 そして下馬について城戸氏は一切弁明をしませんでした。のちに取材で、
「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした。」と話しておりました。

 記念碑にある「情けは武士の道」は実際に城戸氏が言ったかは定かではありませんが、「強き者から弱き者へかける情や哀れみ」は武士道の真髄かもしれません。敵国のアイデンティティを表現する敵性言語が刻まれたこの記念碑が戦中であっても撤去や破壊がされなかったということは、アメリカの人々もまた城戸氏の崇高な精神を認めていたということなのでしょう。この記念碑は戦後日米友好の証として日本に贈られ、現在大切に保管されています。

 城戸氏は戦後も長きにわたって日本馬術連盟理事として馬術界の発展に尽力しました。

 また戦争に徴用された100万頭ともいわれる軍用馬の犠牲を悼み、「戦没馬慰霊像」の建立に奔走し、完成した像は1952年靖国神社へ奉納されました。

 城戸氏の「愛馬精神」は現在、世界中の馬術に携わる者に継承されております。1986年 永眠(享年97歳)

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