音楽と中庸…?
私はピアノが好きだ。
音も響きも、どことなく機械っぽいところとか、相手を選ばないところとか。
音大出でもプロでもなく、ただただ弾くのが好きってだけだけれど。
私が唯一、何かに没頭できるものと言ったらピアノくらいかもしれない。もしこの楽器と出会わなければ、退屈な時間をどう過ごすものか考えあぐねてぽっくり逝ってたかもしれない。
だから、私は少なからずこの白黒の箱に救われている。棺にしたいくらいにね。
ピアノを弾いている人は、もしかしたら一度は考えたことがあるかもしれないし、ないかもしれないことだけど、私は弾いていてわからなくなる、一つの作品の完成ってどこなんだろうって。
もちろん、楽譜に全ては描かれているかもしれないけど(ない場合もあるかな)、何度も同じ曲を弾いていると、曲自体は終わっても、まだその曲は終わりではないような気がしてくる。
編曲をするのではなくて、同じように弾きおえたとしても、微妙に違う、だから、弾くごとに一章節増えていくような感覚。少しずつ、少しずつ、オリジナルの曲が出来上がっていくみたいなんだ、まるで。
そんでオーケストラを聴きにいったら、凄かった。その時の張り詰めた緊張感、観客の熱気、こみ上げる感動、拍手の波打つ音。ひとつの公演が、その場に参加した人々の人生の一章節となって積み重なっていって、それぞれの大曲を創ってるかもしれないんだって。
そんなことを考えてたらこんな言葉が浮かんできた。
あるところに響いた音楽はその場において、完成し、また未完成なのかもしれない。
(なんだか円周率みたいだ…)
白黒つけようがないからこそ、その微妙に異なった音楽の色合いをいつまでも愉しく探求し続けることができる。
そこには争いもなければ正しさもない、ただただその瞬間の交わり、マーブルな時間を感受する。その繰り返しのどこかの過程に各々の時間が重なってくる。
そう考えると、私が先に挙げた完成の所在への問いは愚問なわけだ。
完成はどこかにあるけど、どこにもない。
それってつまり、どういうことだろうね?
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