「沈丁花が枯れたとて」セルフレビュー
太陽と申します。
今回、公開しました「沈丁花が枯れたとて」という作品は、昨年の7月14日に上演された作品です。当時から「この作品が好きだ」と言ってくれる方が多く、本作は僕の代表作のような位置付けとなっています。正直、本作の主張や筋書きはあまり好きでは無いのですが、自己紹介の意味合いを込め、公開とさせていただきました。旬が過ぎた感は拭えないのですが、今一度読み返していただければ幸いですし、もしも新たに好きになってくれる人がいたら、ありがとうございます。
いまいちど読み返してみて
原型となる舞台脚本を書いたのは高校一年生の時です。当時のタイトルは劇中に登場する絵本と同じ「隅に咲く花」でした。確か二年生になった年の高校演劇発表会で上演するつもりで書いたはずです。結局、自分で書いたコメディ作品に票数で負けるという「セルフ落選」をして上演を逃したのを覚えています。もちろん当時の僕はその2年後に日の目を浴びることになるとは夢にも思っていません。
こういう「思想が強い」系の作品は、他人の作品を見るのは大丈夫なんですけど、自分のはやっぱりキツいですね。若さのせいにするのは狡い気がしますが、やはり劇中で述べる主張には青臭さが目立ちますし、一歩引いた視点で読み返さないと気がおかしくなりそうです。
しかしながら、見返す時期によって作品の見え方や人物への印象が異なるという点は「思想が強い」系の強みとも言えるでしょう。もう数年後、本作を見返した時自分がどんな印象を持つのか楽しみですし、他の人に感想を聞くのも面白そうです。絶賛してた人が掌を返すかもしれませんし、逆に酷評気味だった人が「悪く無いかもね」と褒めてくれるかもしれません。
人物について
北村響
書いている時は「動かし易い奴だなあ」と思っていました。わりと空気を読まずにふざけたことをやらかす奴なので、軌道をそれた物語を正してくれる役回りを担ってくれましたね。あと、彼のおかげで物語がシリアスになり過ぎなかった感じもします。
この作品には相対する二つの価値観ABがあって、北村はAの価値観を象徴する人物なんですけど、最初はAとBの中間にいます。でも、やっぱり天秤はAの方へ傾いていて、あの結末はなるべくしてなった結末なのかもしれませんね。
笠原菫
「高校演劇、主張が弱めな女の子が主要人物にいがち」という高校演劇あるあるを忠実になぞったキャラクターです。多分サクセスストーリーが作り易いからなんでしょうね。
菫ちゃんはとってもいい子だと思います。いい子なんですけど、悪い子に転落し易い性質を持った子なんです。ここだけの話、創作をやっている人なんて特に病み易い傾向にありますからね。
多分、本作のヒロインみたいな立ち位置の人物です。過去にトラウマがあって、それが人格形成に大きな影を落としています。で、それを救う王子様的立ち位置の人物は誰かと言うと……。
大貫里沙
彼女なんですね。里沙もまた過去にトラウマがあるのですが、むしろそれを糧に似た境遇にある菫に手を差し伸べたりしています。そのへんの過程の描写が僕の力不足ゆえに、分かりづらくなっているのが反省点の一つです。
演出家の技量や役者の魅力によって、戯曲の描写以上の深みが生まれたキャラクターだと思ってます。同時に作者の手から離れた感があって、寂しい感じもしますね。
堀江辰也
アノミー病の分かり易い症例として、とんでもない悪ガキにしようとして失敗した人物です。でも、それなりに可愛いやつになったので良いと思います。
彼もまた役者の魅力によって深みが生まれた人物です。当初はそんなに重要な立ち位置の人物では無かったんですけど、それなりに目立つポディションに落ち着きました。
筒丘
沈丁花荘の代表者です。2019年に上演したときは「園長」という役名でした。「沈丁花荘なのに園長なのはおかしくない?」という指摘をずっと聞こえないフリしていたのですが、今回良い機会なので改名させていただきました。上演時に僕が演じた人物でもあります。
今作の相対する価値観ABのBの方です。この世界ではBがマジョリティとされています。
結局の所、価値観ABのどっちが正しいんだって話なんですけど、ケースバイケースでどっちも正しかったり間違ってたりするんですよね。本作の世界における世論というのは、天秤がAにかなりの大差をつけてBの方へ傾いている状態です。いずれ時が経てば天秤はAの方へ傾いていくと思うんですけど、そのときは筒丘が北村のように「マジョリティに立ち向かうレジスタンス的カリスマ」になるんでしょうね。
佐藤
沈丁花荘の職員です。中年の女性のイメージだったと思います。
この世界の価値観B寄りのレイシストを露悪的に描いた人物ですね。
アノミー病の判定基準を正確には定義づけしていないんですけど、佐藤さんって、あからさまにクロっぽいですよね。言っちゃ悪いけど、何かの病気みたいです。でも、彼女が犯罪を犯すだろうかと考えると、犯さないと思います。ちょい役ですけど、世界観の補強に関して重要な意義を持つ人物です。
室谷
執筆中は「むろや」という読みを想定してたんですけど、「むろたに」に落ち着きました。言いやすいですからね。
沈丁花荘の職員です。価値観Bサイドにも良いひとがいるんだよ、ということを描写したかったんだと思います。
同時に「人は皆分かり合える」という本作の諍いの元凶ともなる価値観を有している人物でもあります。もちろん、間違いでは無いと思うんですけどね。
生徒A、生徒B
それぞれに役者が決めた役名があったと思うんですけど、すみません、忘れてしまいました。
菫のクラスメート兼里沙のクラスメート兼終盤に登場するアノミー病が治った人という役回りです。それぞれ別人とされています。
演じていた2人は人をなじる喋りが本当に上手くて、印象に残っています。印象に残りすぎて、耳元で気狂いと罵られる眠れぬ晩もあるくらいです。
先生
改変前の名前は僕の苗字でした。佐藤さんと同じ人が兼任で演じていましたね。終盤の筒丘と似たようなことを言っています。
この先生に関しては特に書き加えることは無いです。上演した際、観に来た両親からは、めっちゃ怖かったと好評でした(これは佐藤さんも)。
アノミー病について
公演前には人種差別だとか大々的な問題の象徴として考察されていたこの架空の病ですが、僕の中ではそんな大それたものではありません。
一応の共通認識として「差別や偏見はいけませんよ」と言われている世の中において、人々の間になんとなくある嫌な視線や、それに伴う双方向に対しての思い込みや被害妄想。あるいは単純な恐怖からなる自己防衛行動。そういうもののメタファーとしてアノミー病は存在しています。
本作を通じて社会の闇を描いているようなつもりは一切ありません。どちらかと言えば、身の回りにある嫌な空気感や美しくない思い出をコラージュした、日記的な作品なのかもしれませんね。
さいごに
いかがだったでしょうか。文章の傾向として自虐気味にはなってはいましたが、一応大切な作品ではありますよ、「沈丁花が枯れたとて」は。やっぱり大学生になって初めて携わった舞台ですし、いろいろな人に褒めてもらって、物書きとしての自信につながった作品ですから。
このnoteには全7作品のアップを予定しています。本作が気に入っていただけたのであれば、引き続き読んでくだされば幸いです。暇つぶし以上の読書体験になれるよう、精進いたします。
次回は「沈丁花が枯れたとて」で描ききれなかったテーマを扱う、本作の続編を公開します。カミングスーンです。