俺の自由バリア
悪性:☠️
ある行為を正当化するために、「だって、それは俺の自由だろう」という返しをする人は少なくないが、こういう人たちに対しては、『この人、なおさら非難されるべき事由を自分から話してしまっているな』と思う。
というのも、ふつう、「ある行為に対して、自分は自由だった」というのは、つまり自分の意思によってその行為を成したということであって、これはまさに、当該行為が自らに帰責する事由であるからだ。
原則として、自由には責任が伴う。
仮に、「その行為は俺の自由だ」ではなく、「その行為は他人に拘束された」若しくは、「強制された」といった言い訳が成立したときを考えてみよう。このようなとき、当該行為は、日本の刑法論における『期待可能性』に似た理屈によって、正当化可能である。このような場合は、その行為者ではなく、それを強制した人(たとえば、子供を人質にとって、窃盗をさせた者など)を責めるべきだろう。
注意すべきは、ある行為に対して期待可能性が認められたからといって───すでに広義の責任は認められるかも知れないが───ただちに行為者が非難されるべきかは議論の余地があるということである。というのも、その行為と、なんらかの損害、非道徳との因果関係の有無が別のトピックとしてあり得るからである。
これは簡単な話で、たとえば、A氏がその自由な意思によってB氏の財布から一万円を奪取した場合を考えよう。このときは、『A氏の奪取行為』と、『B氏の損害、および社会的不利益』との間には因果関係が認められるはずであり、当該行為が、他のなにものかに脅迫などされて成されたわけではないと認められたら有責なことである。しかし、別のたとえ話として、C氏がその自由な意思によって、コンビニでカルピスを購入した場合を考えよう。このようなとき、たしかにC氏はその行為について自由であるけども、当該行為をただちに非難する、というのは不合理である。
本項で想定している状況は、すでになんらかの行為に対してその是非が逼迫しているような状態であり、主旨は、このようなとき、その行為者が「いやいや、それは俺の自由でしょ」と返すのは、正当化どころか、その逆を向いた行いだという指摘である。
この『俺の自由バリア』は論壇に瀰漫しており、持ち手に刃の付いた藁の楯に見えるが、不思議と、これを押し返す場面をあまり確認出来ずにいる。