奥泉光『グランド・ミステリー』文庫解説(大森望)
初出:2001年3月、角川文庫『グランド・ミステリー 下』巻末
2013年9月、角川文庫『グランド・ミステリー』(合本版)に再録
解説
大森 望
この文章を書くために、単行本版の『グランド・ミステリー』をひさしぶりに読み返した。最初から最後まで通して読むのはこれで三度めだから、もちろん筋立ては鮮明に覚えている。にもかかわらず、ほんの一瞬も退屈しなかったのには自分でも驚いた。読むたびに新しい発見があり、時間を忘れて没入してしまう。小説を読む喜びに関するかぎり、『グランド・ミステリー』はまちがいなく一九九〇年代最高の一冊に数えられる。とにかく抜群に面白い、超弩級の傑作なのである。
ただし、それがどのような小説であるかについては、たぶん読者によって無数のの見方がある。たとえば……。
日本海軍の潜水艦と空母を舞台に、不可能状況での毒死事件と「盗まれた手紙」事件を扱うガチガチの本格ミステリ。
迫真のリアリティで一個人の視点から太平洋戦争の裏面を活写する大岡昇平ばりの戦記文学。
戦争論と日本論を徹底的に突き詰める思想小説。
スティーヴ・エリクソンの向こうを張る、魔術的リアリズムを駆使した現代文学。
謎の武器商人やら怪しい予言者や謎めいた研究所が登場する、(セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』やリチャード・ノーフォークの『ジョン・ランプリエールの辞書』の系譜に連なる)絢爛豪華な一大伝奇ロマン。
戦時中の文学サロンに集う浮世離れした人々の人間模様を描く恋愛小説。
戦争のどさくさにまぎれてのし上がっていく天才的実業家と、汚れ仕事を一手に引き受ける忠実な部下とのコンビを軸にした痛快ピカレスク。
ふたつの現実を巧妙に重ね合わせる歴史改変SF……。
じっさい、本書の刊行当時に出た二十あまりの書評を見渡しても、評者と媒体によって、同じ小説の書評とは思えないほど見方が違う。読者がそれまで読んできたものと、今どんなことに興味を持っているのかを映し出す鏡のような小説なのかもしれない。
あえて最大公約数的にこの小説を形容すれば、「本格ミステリのモチーフと戦記文学の背景とSFの設定を借り、現代文学の方法論を使って書かれた一大エンターテインメント」という玉虫色の表現に落ち着くだろうか。
それだとさっぱりイメージが湧かないんですけど、という未読の方のために、ここはひとまずタイトルに敬意を表し、ミステリ的に要約してみる。
昭和十六年(一九四一年)十二月八日、南雲忠一中将率いる日本海軍の機動部隊は真珠湾奇襲作戦にみごと成功する。映画『トラトラトラ』や『パール・ハーバー』でお馴染みのこの歴史的大事件の陰で、ふたつの不可解な小事件が起きていた。
ひとつは九九式艦上爆撃機の搭乗員毒死事件。出撃を終えて空母・蒼流に着艦した榊原大尉が操縦席で謎の服毒死を遂げたのだ。毒が混入された水筒の水を飲んだことが死因とされるが、事件後の調査で水筒から毒物は発見されていない。榊原大尉はいつどこでどうやって毒を飲んだのか? しかし、真珠湾攻撃成功の祝賀ムードの中、毒死事件は自殺もしくは事故としてうやむやのうちに処理される。
もうひとつは、伊二四号潜水艦で起きた「盗まれた手紙」事件。事実上の特攻任務に赴く特殊潜行艇乗組員が出撃の直前、艦長に託した遺書。それが何者かの手によって金庫ごと盗み出されてしまう。いったいだれが、なんのために遺書を盗んだのか?
この二つの事件が物語を牽引するエンジンであることはまちがいない。前者の空母では、整備兵曹の顔振清吉が、後者の潜水艦では先任将校の加多瀬稔大尉が視点人物となる。
毒死した榊原大尉の友人だった加多瀬は、真珠湾攻撃から帰国したあと、未亡人となった榊原志津子を見舞い、事件の真相を探りはじめる。
……と、このあたりまでは、たしかにオーソドックスな歴史本格ミステリに見えなくもない。眉に唾をつけるミステリ愛好者のためにあわててつけ加えておけば、この二つの謎(前者はハウダニット、後者はホワイダニット)には――奥泉作品としては例外的に――きちんとした合理的解決が与えられる。本書冒頭に引用される昭和九年(一九三四年)の水雷艇「夕鶴」火災沈没事故が重要な意味を持ってくる展開も、歴史ミステリの王道を行くものだろう。史実に取材したリアルなパズラーという側面だけをとりだしても、『グランド・ミステリー』は一級品の風格をたたえている。あるいは、大量死の現場を背景とした本格ミステリの系譜――チェスタトンの傑作「折れた剣」から、谺健二の鮎川哲也賞受賞作『未明の悪夢』や、辻真先の『悪魔は天使である』まで――に加えてもいいだろう。
しかしこれは、『グランド・ミステリー』というプリズムのほんの一面でしかない。逆に言うと本書は、スタンダードな歴史ミステリの傑作を一冊書けてしまうだけのトリックとプロット(および綿密な時代考証と完璧にパスティーシュされた架空の史料)を惜しげもなく捨て石に使って建築された、とてつもない物語の大伽藍なのである。しかも、精緻を極めるその設計図には、意図的にある種の歪みが導入されているから、端正で明快なミステリのつもりで読んでいた読者は、中盤以降の展開に茫然とすることになる。
通常のミステリでは、ひとつの事件に対して複数の解釈が並立することはあっても、探偵役の提示する解釈が唯一絶対の〝真相〟として、最終的にその現実に収束する。しかし、奥泉光を単一のわかりやすい現実に満足しない。このあたりの姿勢は、エンターテインメント小説というより、たとえばアメリカの現代作家、スティーヴ・エリクスンの作品群を連想させる。奥泉光自身の言葉を借りれば、
言葉の論理に従って小説を書けば、小説内現実が多層化するほうが普通だと思います。言葉にはそういう性質がある。たとえば今こうしてインタビューを受けてることを書いたとしても、急に五年前のことを書くことは可能だし。そういう飛躍が自由にできるのが小説だとすれば、小説内現実がひとつでありつづけるのは不自然だとさえ言える。
近代小説はひとつの現実をつくりあげる方向でやってきたし、必要なことだったんでしょうが、その役割が終わった現在は、むしろ多層化していくのが普通だろうと。エリクソンなんかのやりかたが珍しいわけではない。その同じ流れにぼくもいるかな、と感じることもありますね。(SFマガジン一九九八年六月号、『SFインターセクション』第15回より。以下同)
ただし、アンチミステリ的に現実を多層化させてゆく『ノヴァーリスの引用』や『葦と百合』などの初期作品と違って、本書では、べつのジャンル小説的な仕掛けを導入することで、エンターテインメントとしての読み方を拒否しない構造が与えられている。SF読者にとっては直観的に把握しやすい構造だが、そうでない人のために、多少の解説は必要かもしれない。
【以下、本書の小説的なトリックに言及します。くれぐれも本文読了後にお読みください】
小説の鍵を握るのは、「同じ人生を二度くりかえす人々」という時間SF特有のアイデア。ケン・グリムウッドの『リプレイ』や、木内一雅原作、渡辺潤作画の漫画『代紋TAKE2』などとも共通する設定だ。本書の中では、登場人物たちの最初の人生が「第一の書物」、二度めの人生が「第二の書物」と形容される。タイムマシンに乗って過去に遡るわけではないものの、第一の書物で得た「未来の知識」を生かして歴史の流れを変えようとする人物が出てくる以上、一種の歴史改変SFとして読むことも可能だろう(というか、SF読者ならかなりの確率でそう読むはずだ)。
その証拠に、本書のプロットを伝統的なジャンルSFの文法に従って再構成することはそれほどむずかしくない。
物語の起点は、「第一の書物」の昭和五十年代。舞台は銀座(数寄屋橋の交差点から泰明小学校の裏手を入ったビルの四階)にある志津子のバー、〈アンカー〉。海軍OBたちのたまり場になっているこの酒場で、太平洋戦争中の思い出話が語られ、常連客たちの背景が明かされる。メンバーは、昆布谷知親、加多瀬稔、顔振清吉、貴藤儀助。
やがて、この常連客四人に志津子を加えた一行は、休暇を利用してヨーロッパに親睦旅行に出かける。パナマ帽の老人に導かれ、ベネチア某所にある洞窟の暗がりに足を踏み入れた五人は、無限への入り口(porta in infinitatem)をくぐることになる……。
と、たぶんここまでがプロローグ。本文の始まりは、「第二の書物」の昭和十年前後になるだろうか。視点人物はおそらく貴藤儀助。昆布谷と〝再会〟し、『第一の書物』をおぼろげに思い出した貴藤は、太平洋戦争の悲劇を食い止めるため、なんとか日米開戦を回避しようと必死に工作する一方、原子爆弾の開発準備に着手する……。
こんなふうに構成すれば、『グランド・ミステリー』は、フィリップ・K・ディックの傑作『高い城の男』や、ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』、エリクソン『黒い時計の旅』などの流れを汲む時間SFになるだろう。
ただし、注意しなければならないのは、『グランド・ミステリー』の場合、こうしたSF的解釈が唯一絶対の〝現実〟ではないということ。加多瀬は国際問題研究所の安積に催眠術をかけられて妄想を植えつけられたのかもしれない。ある種の天才だった昆布谷が発狂し、その妄想が周囲に影響を与え、貴藤や彦坂はそれに巻き込まれ、振りまわされているだけなのかもしれない。SF的な解釈は、エンターテインメントの読者によりどころを与えるための方便だという可能性もある。
このあたりの事情を、著者はこう説明している。
いちばんむずかしいのは、タイムトラベルならタイムトラベルのリアリティですね。なぜ時間旅行が可能なのかについて、かなり厚みのある疑似科学でリアリティを構築するのが正統派のSFだと思うんですよ。もう一個のやりかたとして、タイムトラベルはできるんだ、と(笑)。とにかくできることにしてしまおうという書き方もある。ぼくはそのどちらでもないんです。前者の方法はとても無理だし、後者の嘘臭さにも耐えられない。どうせ虚構なんですけど、一定のリアリティはほしい。だから、科学的説明抜きで読者にある程度のリアリティをもって受け止めてもらうにはどうすればいいかが問題になるわけです。
『グランド・ミステリー』でも、合理的な説明としては、トンネルをくぐると別の現実に到達するというような話があって、イメージとしてわかりやすい。でも、それが本当かどうかはわからないという書きかたをしています。主人公たちの考えに同調して読む人も当然いるだろうけど、それが正しいかどうかは最後までわからない、それこそ催眠術で植えつけられた情報かもしれないという可能性を残したくなる。それは、リアリティをどうつくるかの問題だと思うんですね。(中略)
SF的な出来事自体についてはそういう(妄想かもしれないし現実かもしれないという)両義性を保ちたいんです。SF的な出来事が起きました、という形にはしたくない。起きたかもしれないし、起きてないかもしれない。その狭間の、まさしく両義的なところに主人公を置きたい。単純に言えば、主人公が見たものは夢かもしれない。その問題がたえずぼくの中心テーマになるんです。他者と関わりの中でできあがっていく現実と、個人が幻想する現実。それは必ずずれている。そのズレこそ現実なんだというのが、おそらくぼくの小説の主張だと思うんです。だからどうしても主人公を両義的な場所に置きたい。
この両義性を迷宮感覚にまで高めるべく駆使されるのが、奥泉マジックとも言うべきアクロバティックな小説技術。作中に引用される古田利明の『失われた遺書』と顔振清吉の『整備兵曹の太平洋戦史』は、いずれも「第一の書」で書かれたものだが、その記述が「第二の書」の同一時点の描写と並置され、読者はどちらの書を読んでいるのかわからなくなり、眩暈にも似た感覚に襲われる。引用であることが明示される前記の二冊はまだしも地の文と区別しやすいが、さらに作中には、『失われた遺書』のあとに古田利明が執筆したべつのノンフィクションからの引用も(それと明示しないまま)挿入される。
たとえば第五章「ソロモン」は、古田利明が聞き出した加多瀬の回想(古田の著書からの引用)で幕を開け、「第一の書物」で起きた木谷の悲劇的な死の顛末が語られる。しかしそのクライマックスで引用はシームレスに地の文へとつながり、「第一の書」昭和五十年代の銀座〈アンカー〉に移動し、加多瀬はその中で故・古田利明『失われた遺書』を読みはじめる。
さらに、〈アンカー〉を出て帝国ホテルの脇を抜け日比谷公園に足を踏み入れた加多瀬は、「死者たちの花見の宴」という言葉をキーワードに、「第二の書物」の昭和十八年へと入り込んでゆく。同じ花見の場面が三度にわたってくりかえされ、読者はM・C・エッシャーのだまし絵に迷い込んだような気分を味わうことになる。
もっとも、こうした魔術的な仕掛けが抜群の効果を発揮するのも、吟味された建築資材が最高の居住性を保証していればこそだろう。こういう複雑な小説構造をまったく意識しない読者でも、波瀾万丈のエンターテインメントとして十二分に本書を楽しめる(狐につままれたような気分はいくらか残るかもしれないが)。
「どた馬」「貧乏神」「豆だいふく」が登場する悪夢のようなしごきの場面と、金井美恵子の《目白》シリーズを思わせる範子のパート(「目白のおばさん」ならぬ「目白のお姉さん」まで登場するのだから、意識的なパスティーシュだと思ってもそう的はずれではないだろう)との鮮やかな対比。じょじょに事件の真相が明らかになってゆくスリルとサスペンス。加多瀬や木谷(コナン・ドイルを原書で読んでいたりする)や範子はもちろん、友部氏のような愛すべき小人物も、絶対的な〝悪〟の象徴でありながらどこか憎めない彦坂も、それぞれ圧倒的にキャラが立ち、それこそ京極夏彦の小説を読むように強く感情移入できるし、登場人物たちの会話もディスカッション小説の楽しさに満ちている。
「組織の中の人間」という隠しテーマや、ついにその名で呼ばれることのない天皇の問題、西欧的な価値観と日本的な価値観の二項対立など、まだ言及していない重要な部品も少なくないが、もう紙幅がつきた。しかし重要なのは、それらの要素すべてが完璧に融合し、『グランド・ミステリー』の物語に結実してることだろう。今度は真新しい文庫版で、四度めにこの小説を読み返すときが楽しみだ。