自由の範囲

12月になりましたね。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
とうとう終わっちまいましたね。

5日間ですってよ

務川慧悟連続演奏会
@浜離宮朝日ホール

こちらですね。昨年にもありましたけど、今年は5日間ですってよ奥さん(誰やねん)
今はAプログラム2daysが終了したところです。(書き出した日付ですすんません・・・)
プログラムは以下の通りですね。
◆Aプログラム
J.S.バッハ:フランス風序曲 ロ短調 BWV 831
フランク:プレリュード、コラールとフーガ ロ短調
レーガー:6つのプレリュードとフーガ Op.99より 第2番 ニ長調
J.S.バッハ=ブゾーニ:10のコラール前奏曲より 第4番 ト長調『今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ』
J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
J.S.バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ ニ短調 BWV1004
ショスタコーヴィチ:24のプレリュードとフーガより 第15番 変ニ長調
◆アンコール
day1
J.S.バッハ:フランス組曲 第5番 サラバンド
ラヴェル:水の戯れ
day2
J.S.バッハ:イタリア協奏曲 2楽章
ショパン:英雄ポロネーズ

というわけで個人的に振り返る支離滅裂な感想をスタートしましょう
(勝手に始めろ)
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J.S.バッハ
その作曲家の名前を聞いて皆様はどのように想像するだろう
教会付きのオルガニスト
音楽の父
バロック時代の作曲家
個人的に知識として持ち合わせているのはこの程度。
クラシック音楽の深淵を覗き始めたのはつい先ごろのことで、
私には深く考察できるほどには慣れ親しんではいない。

務川慧悟
このピアニストの代名詞といえば、おそらくファンならば
ラヴェル
と答えるのではないだろうか。
数多いる作曲家の中でかの御仁が好んで演奏する作曲家は多かれど、
別の切り口から彼の代名詞を問うならば間違いなく
J.S.バッハ
その人なのではないだろうか。
もちろんショパンだって、ラフマニノフだって、この御仁の演奏は素晴らしい。
これは、私なぞよりも長く見てきている多くのファンが認識しているところだろう。
演奏される機会こそ少ないかもしれない。
しかし、ことあるごとにこの哲学者然としたピアニストのレパートリーの中で異彩を放つのはバッハなのではないだろうか。
といえど、実演で聞いたことがあるのはおそらく1・2曲なのだが。
私自身バッハが嫌いなわけではないが、うまく聞きこなせてはいない。
ゆえに少々縁が遠くなってしまっているのが現状ではある。
とはいえ、このピアニストの指からバッハが奏でられるとき、
いつだって既存のイメージは覆されてしまうものである。

今回のプログラムを見れば明らかだが、バッハを主軸としたプログラムだ。
残念ながら別件でばたばたしていたために曲の予習以外ができずに軽い調査のみで演奏会に参加する羽目になったのが個人的には痛手だ。
(ほんとにすみませーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんんんん)
痛手ついでに、いつもながら好き勝手な感想をぶちまけさせていただこう。
(ほんとにいつも声がでかくてすみません)

◆J.S.バッハ:フランス風序曲 ロ短調 BWV 831
フランス風序曲。もともとは17世紀フランスでバレエやオペラの開始に用いられた形式らしい(wikiなんちゃら参照)
バッハはフランス趣味で憧れがあったというのは、ご本人もおっしゃっていた話だったと思う。
フランスに憧れ、ついぞフランスの地を踏むことのなかったバッハ。
この話を聞くだけで、バッハのイメージが少し和らぐのは、少々単純が過ぎるだろうか。
演奏の話をしよう。
参考にした音源を聴く限り、かなり神聖な印象のある舞曲だ。
バッハの作品をそこまで多く聞いてきたわけではないが、その当時は鍵盤といえば、オルガンかチェンバロ、ハープシーコードなどがメインだったと考えられるわけで、それゆえか、楽譜に忠実ゆえか、割と平坦な演奏が多いイメージ。(あくまで個人的なイメージであって、みな同じだと思っているわけではない。はい。いいわけでござるな。)
さて、御仁の演奏はどうか。
正直出だしからあっけにとられてしまった。
これは初日も2日目も同じだ。
なんと表情豊かだろうか。
決してダイナミクスにあふれているということを言っているのではない。
テンポである。
これほど揺らぎがあるものなのか。バッハの作品にあってこれは許されるものなのか。
装飾のつけ方、音符と音符の間の取り方、スピード。
これほど多彩にあって、それがまったく嫌味にならない。
どれもがスムーズに耳に届いてくる。
そして、それでも失われることない精神性。
御仁は2日目のトークの中で「崇高」と表現した。
その言葉そのままに、これほど表情豊かに「崇高」さを表現する。
これだからこの男は恐ろしい。

聴きこんだ音源などまるでなかったことになるような錯覚。
今まで聴いてきた同曲の演奏が全て嘘だったのではないかと思わされる。
知らずに流していたところから、新たな視点を強制的にねじ込まれる。
今まで耳にしていた曲を変換していく。
「この曲の聴きどころはここですよ。ここにこういう表現だってできるんですよ」と教えられている気分になるのだ。
そうして、ほかの演奏家の演奏の見方まで変えられてしまう。
これはもしかすると私が初心者だからなのかもしれない。
そうして、またバッハの別の側面が自分にしみ込んでいく。
この瞬間の鮮明さを、感動を、どう表現したら伝わるのか。
こうして今日も新しい今まで見えずにいた視界の先を強制的に開かされる。
これが今回の演奏会1曲目である。
まったくもって恐ろしい。

8曲で構成されるこの曲であるが、出だしの序曲が一番崇高であろう。
祈りから始まるといってもいいかもしれない。
初手の数小節だけで会場を引き込みまるで教会にて祈りを捧げる信徒になったような気分だ。
告解室といってもいいかもしれない。
プログラムに序曲について
「鋭い付点リズムを基調とした部分と快活なフーガ部が交互に奏される、という、当時フランスにおいて流行していた”フランス風序曲”の形を取っている」
と掲載されている。
まるで、付点リズムを基調とした部分に挟まれる、フーガ部分はさまざまな懺悔を重ねているような気分になる。
懺悔をして、神に祈るような序曲に見えてしまう。
そんな感傷的なことを思うのは、自分の心持ちのせいだろうか。
そして、場面は展開する。
ふとここで音色の異様な変化に気が付く。
今回各プログラム2日ずつ演奏されたが、1階席と2階席で別れて聴くことにした。
初日は2階、2日目は1階である。
音源ではおそらくペダルを利用していなかったように思う。
急激にピアニストの音が閉じこもるように感じた。
初日、音の変化に動揺を隠せなかった。急激な音色の変化。
くぐもったような音色の中に、ふと雨の日を思い起こさせた。
雨の降る庭を室内から憂うように眺める儚さを。
そして2日目にもそれは起こる。
どうやらソフトペダルを使用していたらしい。
それによってこれほどの変化が起きることを私は予想していなかった。
(ピアノが弾けない人間の予想などぉ!!!)
しかし、そうすることによってより憂いが色濃くなっている気がした。
これは、楽譜にはないであろうし、おそらくピアニスト独自の解釈に基づくものだろう。
こうして、続々と己の解釈に基づく展開をこれほど見せてくれる。
現代ピアノの可能性を信じていると御仁は言う。
見事にそれを証明するかのように、音のダイナミクスではなく、様々な表現をもって顕現させる目の前のピアニストの才能に、この会場の一体どのくらいの人がこの2日だけでおぼれたのだろうか。
たとえば、あまりバッハを聴き好んで来なかった人が初めてこの曲を聴いているとしたら、この表情豊かなバッハにどれほど心をつかまれるのだろうか。
たとえば、バッハを好んで聴き、バロック音楽に精通する者が聴いているとしたら、今目の前で展開される解釈をどう捉えるのだろうか。
少なくとも、前者である私には、「バッハ」というある種、聖人のように感じてしまうイメージからは少し変革をもたらされている。
バッハは人なのだと。

◆フランク:プレリュード、コラールとフーガ ロ短調
前回聞いたのは長野の八ヶ岳音楽堂。その頃の印象を持ったまま、
音源はジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンのものを参照していた。
しかし、その印象は一瞬で改変されることになる。
こんなフランクを私は知らない。
絶望を思わせる没入の圧の恐ろしさ。
まるで、体に石がのしかかっているようだ。
なんと痛切なフランク。
以前聴いた時よりも明らかに明確な意思が存在した。
前奏曲に時折立ち現れる、心を射抜くような和音。
この音を聴いて、切なさに身を引きちぎられるような思いがした。
全体的な暗い色彩。まるでグレースケールの世界である。
そこにこれほど突き刺さるような音色で、いったい何をもってしてこれほどに痛切な音を出せるのか。
そして、絶望の意味を語るようなコラール。
トークの中でフランクの和声の複雑さに触れている。
確かに難解な曲である。
そして、明らかに腕の動きがおかしい。
演奏技術としても、和声としても複雑怪奇なのであろう。
それにあっても失われることのない丁寧さ。
一つ一つの音を決してないがしろにしないこの御仁の集中力は、
毎度のことながらどうなっているのだろう。
階段を一つ一つ上るように紡がれる旋律。
左手が高音をなでるたび、切なさで息が詰まる。
正直に言えば、この曲を何度聞いても、いくつかの音源を聴いても、
どうしても呑み込めずにいた。
どんな曲なのかイメージできずに、ただ、陰鬱と過ぎてしまっていたのだ。
八ヶ岳で聴いた時ですら、明確なビジョンは得られずにいた。
(いや本当にごめんなさいフランク・・・そして王様・・・・)
しかし、今回の演奏はどうだろう。
何がどう改変されるとここまで迷いがなくなるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えているうちに次のフーガで展開される旋律が予告される。
下降していく旋律。そして始まるフーガ。
暗中模索するように、幾重にも折り重なるように下降していく旋律。
そして過去を再度振り返るように前奏曲の旋律が回帰しながら、暗中模索の果てに、希望をつかみ始める。
この希望をこんなにも希望として表現できることが何よりも美しかった。
痛切な絶望が身を焦がしていても、最後には希望があるのだと体現するかのように。
この曲をこれほど素晴らしいと思ったのはこの日が初めてかもしれなかった。
何度聞いても苦手な音楽というものはある。
しかし、そこにこの御仁が演奏することで開かれてしまう扉が存在してしまう。深い洞察、理解、研鑽。すべてが凝縮された一撃をこの御仁はいつだって用意してしまうのだ。
2日目のトークのときだった。フランクについて触れたときのことだ。
演奏家というものは、演奏の場に立つ前に準備をして臨むものだが、必ずしも完成したものを披露するわけではないと。
家でできていたことが、ステージではできないこともあれば、
逆に、ステージに立ったからこそ理解できる。和声の色をつかむことができることもあると。
そのとき、ふと御仁は自らの手を見やり、指を擦る。
この瞬間、おそらく観客は皆気が付いたはずだ。
この曲の色、確信をつかんだのだと。
そして、この話は演奏後のことだったが、初日と2日目の演奏を聴いた我々にとって、それは間違いでは決してないと思わざるを得なかったのではないのだろうか。
演奏家が何かをつかむ瞬間に立ち会ったといってもいいのかもしれない。
そして、それを包み隠さずに披露しなければならないのが、演奏家というものなのかもしれない。
だとするならば、こんなに贅沢なことはない。
もしかすると、それを忌避する観客もいるのかもしれない。
しかし、私にとっては、その過程すらも臆することなく披露できてしまうことのほうが、どうしても惹かれてしまう。
完璧なものなどこの世には存在しないから、未完成であり、もがいているからこそ、その途上で出会う美しさが際立つのではないだろうか。
そんなことを思うフランクだった。

◆レーガー:6つのプレリュードとフーガ Op.99より 第2番 ニ長調
◆J.S.バッハ=ブゾーニ:10のコラール前奏曲より 第4番 ト長調『今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ』
休憩をはさみ、短い2曲である。
素直に記します。ここまじで箸休めでした(おい)
短くも技巧的で華やかだ。
軽やかに展開されるレーガー。
流れるように走るバッハ。
ここではおそらくバッハのタイトルの通り、喜びや祝福を表したかったのかもしれない。
絶望の後に置くには、最適なプログラミングかもしれない。
もしも、これが御仁の配慮だとしたらなんとも素晴らしいホスピタリティだ。
さすがに、個人の欲によりすぎているだろうか。

◆J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
さて、バッハである。
それにしても、こういった宿命の主題のような曲を演奏させたときのこの御仁のセンスはいったいどうなっているのだろう。
どうやら即興性の高いこの曲にあって、これが正解だ。と思わされる演奏。
先の2曲を弾いた人物と同じ人間が弾いているのだろうか。
祝福の後に、救いを求めるような半音階。
バッハという作曲家は存外技巧的だ。
どうしても慣れ親しんでいるのは近代以降の作品に偏りがちなのだが、
バッハはまた違った技巧を指し示す。
2楽章構成の本作品だが、1楽章は技巧の中に即興性を内包しながら(実際、楽譜の指示のなかに和声進行のみが付され、「自由にアルペジオせよ」の記載があるらしい。今回のプログラム談)、そこに見いだされる精神性は、やはり神への深い忠誠もしくは縋り付くような祈りだろうか。2楽章は逆に技巧の中に深い作りこみ、構築の美学がある気がする。
務川慧悟というピアニストは、即興的(というより瞬間的)なものに関しても抜群のセンスを発揮する。というよりも、本人は即興性を大事にしているといってもいいかもしれない。(即興性の意味の使い方が正しいかどうかはさておき。ほんとこういうところが適当なんだよこいつ・・・)
元来の性格的な予想からすると、どちらかといえば細部にこだわり作りこむタイプな気もする。(本人がいつぞやのリサイタルで完璧を目指しがちということを言っていたような・・・)
しかし、ここ最近のこの御仁はどうかと言われれば、もちろん、ラヴェルのように完璧に作りこまれた世界の構築はそれはそれは素晴らしい。
ぞっとするほどに美しく、ぞっとするほどにこちらを引きずり込む。
この引力にも似た魅力は誰しもが感じているところだろうが、即興性を内包した時のこの御仁の魅力というのはそれはそれで、我々を振り回してくれる。
以前のリサイタルで彼はこういった「フランスの美学は瞬間の美学である」と。
おそらく即興性というものは、瞬間の美学と置き換えてもいいのかもしれない。そのときそのときで発揮される、御仁の思う「こうしよう」が目の前に放たれた時の説得力とでもいえばいいか。
これが我々にとって当然予想されない事態、そして、予想されれない事態に
あってもさも当然であると思わされるどうしようもなさは、代えがたい魅力だろう。
あまりほかの演奏家のリサイタルに行っていない私が言っても説得力はないが、この御仁の多面性は、それだけで価値があると思ってしまう。
たとえ、ほかの演奏家のリサイタルに行けずとも、知らずとも、これがあればいいと思ってしまう。(ちょっとずつほかの演奏家も聞きたいのですけどね・・・・満足・・・・できないんですよね・・・・・)
そう。そして、この曲がいわば前置きである。ということを忘れてしまうほどに。

◆J.S.バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ ニ短調 BWV1004
言わずと知れたシャコンヌだが、元曲はヴァイオリンだ。
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ2番に収められている5曲目だ。
元曲のヴァイオリン版シャコンヌはなんとも崇高で神聖な曲だ。
編曲版で有名なのはブラームス版と今回のブゾーニ版だろうか。
(ブラームス版は左手のみで演奏される。普通に両手で弾いてると思ってた・・・激ムズすぎません・・・?)
元曲の雰囲気からすると近いのはブラームス版だろう。
しかし、今回演奏されるのはブゾーニ版である。
御仁曰く、ブゾーニの編曲を華やかすぎると評されることもあるらしい。
確かに、元曲およびブラームスの編曲と比べると一目瞭然だろう。
参考音源はもちろん2018年に浜松国際ピアノコンクールでこのピアニストが演奏したものである。
実演で聴いたのは1度。私が知ったのは2020年になってからなので、当然上記のコンクールの時を知らない。
なので、文字通り今回を迎えるまでに擦り切れるほど聴いた。
音源だけでもいろんな意味で相当なインパクトである。(ひそかに霊障アルバムと呼んでいる。だって・・・・後半音がところどころ「ぶちっ」ってなるんだよ・・・)
そして、今回。初撃の和音から全身に鳥肌が立った。
どのように形容したらいいのか、正直分からない。
この感覚を何と呼べばいいのだろうか。
視線が釘付けになる。
他を気にする余裕などない。
あっという間に会場のすべてを巻き添えにして、そこには別の世界が形成されているように感じた。
今でもこの感覚がいったいなんなのか整理が追い付かずにいる。
ある種そこは教会だった。
奏でられる旋律から醸し出される崇高さ。
崇高などということすら生ぬるい気がする。
そんな中最初の山場を迎える。
けれど、今目の前で起きているのはただの人間がただピアノを奏でているとは思えないほどの威力がある。
神聖、崇高、祈り、奇跡、絶望、懇願、どれも違う。
どんな言葉を並べ立てても、まったくフィットしない。
きっとこれはあの場所にいた人間にしか伝わらない。
言葉など物事の本当にごくごく一部しか伝えられない。
混乱した頭をよそに、曲は進む。そしてまた、追い立てられ始める。
息をすることすら、己の自由にはならない。
これはいったいなんだろう。
打ち鳴らされる低音がさらに我々に追い打ちをかける。
もしかしたら、酩酊しているのかもしれない。
山場を越えた時に見える一種の世界の広がり方は驚くほど穏やかだ。
すっと視界が開けるような感覚。
そこから明るいほうへと進んでいく。
鐘の鳴る方向へ。
そこに至った時の幸福がどれほどのものか。
あの場にいた全員が同じ境地だったと信じている。
ここに至るころには奇妙な錯覚をしていた。
まるで、目の前のピアニストの輪郭が解けて、全てを飲み込んでいくかのような感覚。
ピアニストを頭脳として、ホールのすべてが一つの人間になっていくような奇妙さ。
わけのわからないことを言っているのは承知している。
それくらいの衝撃だった。
飲み込まれた先、ここから先が私は好きだ。
あれほどすべてを飲み込む勢いで進行していた刹那。
その瞬間にため息が出るのだ。
すべてを諦めたような、口をつぐむような、ただ、耳を凝らしたくなるような瞬間。
これが、どれほど心に刺さるか。
どうしてこんなにも言葉は不自由なのだろう。
そして、それを抜けて曲は大詰めになっていく。
鳴らされる音の圧力の凄まじさ。
何かを決意するように駆け上るクレッシェンド。
そこから1音を追うごとに、音程が下がるごとに増していく打鍵の強さ。
文字通り楔を打ち付けるようにならされるこの音が、体に刺さっていく。
曲の終わりを告げる1音その音が消える最後の最後まで、
奏者も観客も微動だにしなかった。
空に消えていく最後の最後まで美しかった。
そこで出来上がったものが、体感したものがなんだったのか。
明確な言葉で述べることができない。
プログラムには以下のような文が記載されているので転載しておこう。
「本作は主題と30の変奏から成る。その30の変奏によってヴァイオリン1挺から生み出される世界自体まさに崇高なものだが、ブゾーニは現代ピアノの端から端までを存分に駆使して、その音宇宙をこの大きな楽器にふさわしいそれに翻訳した」

◆ショスタコーヴィチ:24のプレリュードとフーガより 第15番 変ニ長調
正直に言いましょう。
シャコンヌの衝撃がすごすぎて、本来であれば、個人的に実演を聴きたかったこの曲の印象が薄くなってしまった・・・・!!!
とはいえ、あれほどの大曲の後に弾くもんじゃありませんぜ旦那・・・(誰やねん)
本来であればこの曲は24の前奏曲と24のフーガの計48曲構成(前奏曲とフーガ1対で1曲とみなすのが普通だけど)、全曲演奏するのに2時間半かかるこちらも大曲である。
前奏曲⇒フーガの順に配列されたこの曲の第15番。
全曲聞いてみると分かるが15番はかなり特徴的だ。
初めて聞いたのは、2021年務川慧悟最後のコンクールである。
日本国内では1度も演奏されなかった曲がとうとうお披露目だったわけである。
この曲の何がすごいかといえば、やはりフーガだろう。
高速で推移するフーガ。
まずは前奏曲。少し跳ねるように進行する前奏曲。
楽し気に進行していく。
あの大曲の後に聴くと、なんとも異質だ。
ショスタコーヴィチのシニカルな一面がよく表れている気がする。
バロックから急に現代に引き戻される。
そうそうこれこれ、と思っているうちにフーガである。
急にスイッチが入ったように展開する高速フーガ。
まるで機械のように進行していく。
これが全く恐ろしい。
先ほどまでの神聖さとは打って変わり、感情が排された的確で高速なフーガ。
人間の指が対応可能な速度なのかと思うほどのスピードである。
本当に多面的な御仁である。

あっという間に本編が終わってしまった。
まったく困ったもので、これで2時間経ったというのだから。
さて、アンコールは冒頭の通りである。
少しだけトークパートについて触れておく。
確か、これは初日の話だ。
小学生のころバッハが好きだったらしい。ロマン派の曲を弾く、センスがなかったと。
バッハやベートーヴェンのような理詰めでわかる曲がとっつきやすかったとのことなので、そのころから聡明な人だったようだ。
バッハは一般的に難しい印象あるように思われがちと御仁は言う。
バッハの時代はチェンバロのような小さい楽器を想定して書かれた曲を現代のピアノで表現するということは確かに難しい作業だが、逆に言えば自由度が高いという。
御仁のいう「自由」の意味はどこまで含まれるものなのか少し考えてしまうそんな演奏であった。
今回のプログラム、バッハの曲はもちろん、バッハの曲の編曲、そしてバッハが得意としていたフーガを使った別の作曲家の作品が多く登場した。
バッハの生きたバロック音楽の時代からショスタコーヴィチのような近代の作曲家まで、幅広く取り扱われたプログラム。
どの作曲家も定められたルールに基づき、音楽を作る。
今回で言うなら対位法だろう。
16~17世紀のルールを使ってここまで多様に曲を作ることができる。
編曲にあっても、オリジナルであってもこんなにも自由に。
そして、それを弾きこなす側も当然ルールを知っていて、さらに独自の解釈に基づき、演奏という形で曲が再構成されるわけである。
深い考察の痕跡、並々ならぬ研鑽。
そこにはまぎれもない自由があった。
人間とは不思議なものだ。
限られた場所であるから自由でいられる。
制限のない場所では決して人は自由にはなれない。
というより制限のない場所にいるとなぜか自ら制限を作り出してしまう生き物だ。
ルールを理解することで、人はいくらでも解釈の幅を広げていくことができる。
ルールを自在に操ることができる。
音楽の世界において、独自の解釈に基づく「自由」を受け入れてもらえる人間はおそらく極めて少ない。
才能の世界とは、本当にシビアだ。
この人はいったいどこまで自由になるのだろう。
昨年の同時期に開催された同会場でのリサイタルでは、会場の音響を完璧にコントロールして魅せた。
今年、会場のすべてをまるで一つのオブジェクトのように作り変えてしまった。
自由の範囲とはいったいどこまで広がっていくのか。
さて、まだリサイタルははじまったばかりだ。

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はい。初日と2日目合算でお届けしましたーーーーー。
知ってますか?まだ2日で1万字くらい書いてます。
性懲りもなく今回も長々書きました。
お付き合いいただきありがとうございました。
Aプロ・・・・・
とりあえず、とてつもなかったですが、我らが王様がやりたいことをやりたいようにやってくれましたね!(おい)
でも本当に楽しそうだったし、今までで一番ド頭から集中しきっていたような感じがしました。
そして、本当に務川慧悟らしいプログラム・・・
いいプログラムでした。
最近輪をかけて、演奏を飛び越えて務川慧悟という人間の中身が溶け出しているように感じるのは私だけ・・・なんでしょうか。
というわけでまだ前半です。(笑)
個人的にAプロえげつなかったし、本当に驚きの連続でしたが、
BプロはBプロで刺さっていました・・・・。
お暇でしたら次の記事もおつきあいください。

驚くべきことに、これ書き終わるまで1週間かかってしまいました・・・
なかなか消化できずにいた・・・・・
でもね。やっぱりね。一人で抱えるにはでかすぎるんです今回の5日間・・・
というわけでこの記事はここまでにしましょう。
後半に続く!!!