「理解」を飛び越えた先、耳に届くものは

こんばんは。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
いつものごとくこちらが更新されるということは、そういうことですね(え…)


東京文化会館ですね

フェスティヴァル・ランタンポレル
シャイニング・シリーズVol.17
務川慧悟ピアノ・リサイタル
~シューベルト&ラッヘンマン~

こちらですね。
あまり現代音楽…というか無調の音楽は得意ではなくて、
敬遠しがちになってしまうのだけれど、好みはさておき。
かの御仁が現代音楽を演奏するとき、それはとてつもない完成された何かを感じざるを得ないものなので、やっぱり聴きに行っちゃいました(笑)
ただ、今回はいつものごとく、狂感情というよりも、事前に御仁がポストされた内容なんかを咀嚼しつつ聴いてみたり、これはなんだろうかといった疑問とかそういうものが蠢くリサイタルになったので、いつもの感じを期待されている方は…ちょっと拍子抜けかもしれないです…(調子のんなよ)

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プログラム
ヘルムート・ラッヘンマン シューベルトの主題による5つの変奏曲
ヘルムート・ラッヘンマン ゆりかごの音楽
ヘルムート・ラッヘンマン セリナーデ ピアノのための
シューベルト ピアノ・ソナタ第19番

ラッヘンマンという作曲家は初めてだった。
残念ながら前段でも記載したが、現代音楽というものは苦手だ。
あまり積極的には聴いてきていない。
どう解釈するかいまだによくわかっていないは、その通りなのだが、なんといえばいいだろうか。まだ距離感を測りあぐねていると言った方が近い。
そして今回も、与えられた曲たちを耳にして頭をひねる。
この音楽たちはいったいいかなるものなのかと。

1曲目 シューベルトの主題による5つの変奏曲
タイトルの通り、シューベルトの曲の主題から変奏する曲。
元の曲は「ドイツ舞曲とエコセーズD.643」
こちらの変奏曲、出だしは正直そのままである。
ただ、変奏が始まった瞬間に全く別物になる。
音源では正直これは本当に変奏曲なのかと思わざるを得なかった。
一度、「理解」は諦めよう。
そう思って臨んだ。ただ、曲の大枠は知っていなければ比べることもできないので、必死に理解できない頭で音源を聴く日々。
そうしての実演だった。
会場に着いて、まず初めにやったことはプログラムを読むことだった。
解説を見よう。
やはりここはプロの解説を当てにするのが一番そう思ったものの、そこに記されていたのは、作曲者本人の言葉だった。
正直あまりここでも理解につながるまではいかず、「なるほど…」
とまったく的を得ない謎だけがさらに蓄積する。

そうして始まる演奏。出だしのシューベルトの主題。ここまではいい。
さて、何か得られるだろうか。
そうして第1変奏へと至る。
ところがそこで、急に結びつく。作曲者の「遊び心のある演奏要素や舞曲を思わせるキャラクターは残されている」という言葉。
そうこの曲は、シューベルトの曲と同じ、舞曲なのかと。
御仁の演奏を見て、耳にして痛切に思い至る。
もちろん完全に舞曲として変奏しているわけではない。
だが、時折流れてくるパッセージの中に、ワルツであったり、民謡風であったり、コンテンポラリーであったり、そういった「踊り」の要素が見え隠れする。
そういえば、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」を聴いた時も最初はワルツの要素を捉えきれずに面食らったなということを思い出していた。
そうやって、一つ要素をつかめば、曲の色は変わっていく。
これだから実演を聴かねばと思う。
そして、大概、この目の前の御仁が演奏するときそれは起こる。
切り出されづらい曲の一側面、それを明確化させる説得力。
わざとらしいわけではない。
ごく自然な形で、我々の耳に忍ばせるその剛腕。
正直に言えば、この日、公演中寝てしまうのではないかと思っていた。
そんなこと起こりうるはずはなかった。

2曲目 ゆりかごの音楽
この曲に関しては正直あまり語れることがない。
理解はできていない。ただ、作曲者本人の言葉の通り「様々な方向に枝分かれした構造が特徴的」
これに尽きる気がする。
アルペジオや単体で鳴らされる音たちが宙に投げ出された瞬間に、空中で広がる和音の残響たち。それは一方向ではなく、様々な方角に立体を描く。時にそれは重なるように、時に単体で浮遊するように。
そうして徐々にそれは収束していく。いわゆる深く眠りに落ちていく心象風景。不思議な夢を見ながら落ち沈んでいくような。そういうことかもしれない。

3曲目 セリナーデ
今回のプログラムで最も長い曲。
30分もあるし、隠さず申し上げれば、音源を1曲通して寝ずに聴けたためしがなかった。(おい)
そして、事前の御仁のポスト

このポストを見て、他の曲もそうだが、「理解」というものは一度諦めようと思った。
何より、音源を聴いているうちに、ふと思い至ることがあった。
御仁が現代曲を弾く場面に遭遇したのは都合2回。
1度目はエリザベートコンクールで弾いた課題曲、2度目は西村朗「星の鏡」
特に「星の鏡」を演奏は実演を聴いた。
その経験がささやいてくるのは、これは、音源でなど理解できないのではないかということ。
星の鏡もソステヌートペダルを多用する曲。
この曲をホールで聴いた時の衝撃は忘れられない。
音楽を視覚で捉えることが可能な空間芸術になったのではないかと錯覚するあの音響体験。
それを音源で捉えられたかといえばそんなわけもなく、きれいな曲だな。
くらいにしか思えなかった。
つまりは音源になる途上でそぎ落とされてしまう何か。
それがなければ、音楽として成立しないのではないかということ。
だからこそ、ホールで、実演で聴く必要があるのではないか。
という勘に従った。

さて、その日、ひたすら、鍵盤で奏でられる音ではなく、宙でまじりあう音に神経を尖らせた。
正直、その日聴いたもの、感じたものをうまく言語化できない。
念のため、謝罪しておこう。
ここから先、自分の耳で聞いた感覚的なものをとりあえず言語化した程度のものしか登場しない。
そもそも、私は倍音がどんなものなのか理解していない。
自分の耳がどこまでの音を拾っているのか、これは言語化したところで伝わらない話だと思われるので、どうかご容赦いただきたい。
そのうえで、もしかしたら疑問符だらけになるかもしれないおぼつかない主観を記載してしてみる。
いやほんと、書き始めといてなんだけど、書けるのかな??(おい)

先に自分で調べたことを書いておこう。
とある楽譜の販売サイトに記載されている説明文の一部を抜粋する。

Loud sounds give way to a highly sophisticated exploration of the "orthodox" sounds of the piano, without the body of the piano itself being of constitutive importance as it is in the case of "Guero". Through the complex metamorphosis of isolated (individual) notes or chords suspended in time by use of the pedals, sounds are created, whose reverberations change, depressed keys modulate the sostenuto, resonances and "flageolettes" (harmonics) insert themselves and proceed to develop into a "new type of melody" (Lachenmann), or, in the words of Ferruccio Busoni "...it hovers.

Helmut Lachenmann: Serynade - Musik für Klavier: Piano Solo | Musicroom.com

大音響は、ピアノの 「オーソドックス 」な響きを高度に洗練された形で探求する。ペダルの操作によって、孤立した(個々の)音や和音が複雑に変容し、残響が変化し、押された鍵盤がソステヌートを変調させ、共鳴や「フラジオレット」(倍音)が挿入され、「新しいタイプのメロディー」(ラッヘンマン)へと発展していく。フルッチョ・ブゾーニの言葉を借りるなら「…浮いている」

上記引用をDeepLにて翻訳 https://www.deepl.com/translator?share=generic#en/ja/Loud%20sounds%20give%20way%20to%20a%20highly%20sophisticated%20exploration%20of%20the%20%22orthodox%22%20sounds%20of%20the%20piano%2C%20without%20the%20body%20of%20the%20piano%20itself%20being%20of%20constitutive%20importance%20as%20it%20is%20in%20the%20case%20of%20%22Guero%22.%20Through%20the%20complex%20metamorphosis%20of%20isolated%20(individual)%20notes%20or%20chords%20suspended%20in%20time%20by%20use%20of%20the%20pedals%2C%20sounds%20are%20created%2C%20whose%20reverberations%20change%2C%20depressed%20keys%20modulate%20the%20sostenuto%2C%20resonances%20and%20%22flageolettes%22%20(harmonics)%20insert%20themselves%20and%20proceed%20to%20develop%20into%20a%20%22new%20type%20of%20melody%22%20(Lachenmann)%2C%20or%2C%20in%20the%20words%20of%20Ferruccio%20Busoni%20%22...it%20hovers.


全文はかなり長いので、理解の足掛かりになりそうなもののみ抜粋しておく。
ここから推察できるのは、実際に鍵盤で奏された音そのものにメロディーは感じ取れないのではないかという話だ。
それを踏まえて、演奏を聴いてみる。ただし、音源ではよほど静かなところでないと感じ取りにくく、時にはただ、無音のみが漂っているようにさえ感じる。
つまりは、やっぱり実演勝負となりそうだと思った。
引用している楽譜サイトの説明文の中に、音響に関する記述もあるので、こちらも余裕がある方は参照してもらうと面白いかもしれない。
残響が聞き取れないような場所あるいは、楽器自体そういった音がなりにくい場合は、マイクなどを使用しろというような内容が書かれているのだ。

そして、曲のタイトル「セリナーデ」だが、英語表記にすれば「Serynade」となるが、こちらはプログラムにも記載の通り、「serenade」の"e"を"y"に変えたものだ。
ここでもともとの「serenade」の語源を調べてみるとこちらも結構面白い。

セレナーデは、ラテン語で「穏やかな」を意味する serenus を語源とする。
-中略- 
夜に演奏される音楽の歴史は紀元前に遡ることができる。古代ギリシアでは、夜に野外で恋人を褒め称えるために歌われる「扉の前で」と呼ばれる音楽ジャンルが存在した。こんにち口語に残っている「セレナーデ」も、親しい相手やその他の称賛すべき人物のために、夕方しばしば屋外で演奏される音楽を指す。
-中略-
たいていは一人の歌い手が、携行可能な楽器(リュートギターなど)を手ずから弾きつつ熱唱する、というパターンはあるが、特定の音楽形式が存在するわけではない。

wikipedia「セレナーデ」より抜粋
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/セレナーデ

簡単にいえば夜、屋外で奏でる恋人へ向けた愛の歌が元という話。
もっと簡単にわかりやすく纏められた記事もあるので、こちらを参照するとよりイメージやすい。(さすが大井さんฅ^>ω<^ฅ)
外で愛する人へ向けてギターだったり、リュートを奏でて窓から顔を出してもらうとか………ちょっと個人的には恥ずかしくなるような気がしてくる……昔の人はロマンチックだね……………

そんなこんなを踏まえて、実演である。
初めの印象は宇宙だった。
どう演奏されるかより、どう音が広がるのかそれに集中していた。
ほぼ空中を見たまま、演奏している姿は視認せずに聴いていたのだけれど、強打で放たれる音の残響はまるで靄のようだと思った。
そこから少しずつペダルを駆使して音が減っていく。
残響が残る間に打ち上げられる単音たちが、星のようにその靄の中に埋まっていく。
楽譜を見てこなかったことを少々後悔しつつ、その空に広がる靄のようにうっすらと、ゆらゆら残るその音、と呼べるかもわからない、勘違いと言われたらそうかもしれない音たち。
これがいわゆる倍音なのか、ピアノという本体の中でこだましている空間の残響なのかどうなのか、結局のところ自分で判断はついていない。

感知した音は4種類
・打鍵された音(単音の場合もあれば、腕全体を使ってすごい数打鍵されることもある。メロディというより装飾的な動きが多い)
・頭上に広がり、靄のように残る音
・頭上よりも下、ピアノの胴体内部に反響するような金属を叩いた時に響く音に似た音
・ピアノ弦を手で弾く音(こちらは最後半)

複数打鍵される場合、強打で打ち上げられたものは残響を超えて残り、ベールのように靄を作る。
ある意味少しだけ笙のような響きにも似ている。
便宜上、この複数同時に打鍵される固定される音群を中音群と呼ぶけれど、曲が中盤に差し掛かると、その中音群がただひたすら繰り返される。強弱だったものはどんどん強打になっていく、そのうちに低音群が、加わっていく。
加わった低音群はまるで中音群に近づいていくように強くなっていく。
いつのまにか低音群が中音群を覆っていく。
まるで天体衝突のようだなと思う。
ぶつかった後に鳴らされるのは高音群。
まるで弾き飛ばされるみたいに。
激しく打ち鳴らされたあと、天体衝突後の余波のように浮遊するベールの色を変える。宙に残り続ける音と呼んでいいのかもわからないベール。
果たしてこれを音楽と呼ぶのかという部分に関して、答えは持てなかったけれど、強打の応酬の後、点在し始める音に少し安堵する。
この音の並びに規則性を見つけ出せるならあるいはもっとなにかわかるかもしれないと思いつつ、目の前に点のように置かれていく音と、その打鍵の先に靄のように広がる音なのかどうかと判別のつかない残響にまた高音が装飾していく、どちらかといえばこういう、高音が鳴らされた時の、金属が響くように薄く涼やかに響く残響の方が好みだなと思う。
そうしているうちにまた怒涛のような低音群の襲撃に遭うのだが。
そうこうしているうちに聴き慣れない金属音が入りびくりとする。
ピアノの弦を指で弾く奏法があるのかとようやくこの大曲を奏でる御仁を見て気がつく。
ここで突然思い出す「セレナーデ」の元の形。
そういえば、セレナーデはギターやリュートを使って演奏するのが元だったなとぼんやりそのまた毛色の変わった靄を眺めながら思う。
これはもしかしたら壮大な愛情表現なのかもしれない。宇宙を変えてしまえるほどの。
だとしたら随分な熱量だなと急に微笑ましくなりもした。
果たしてこの曲を提供されたラッヘンマンの奥様である菅原幸子さんは最初どんなふうに思ったのだろうか。
ぜひ聴いてみたいものだ。
時に乱暴なようでもあり、時に浮遊するようでもあり、点在する星々にどんな意味があるのかを。

4曲目 シューベルト ピアノ・ソナタ第19番
ようやくここに来て、耳馴染みのある音楽が………
正直この時点で疲労困憊ではあったのだが、なんと今回はフォルテピアノである。
御仁がフォルテピアノを弾く姿を見るのは通算2度目。1度目はショパンだったけれど、今回はシューベルト。前回聴いたとき、不思議と奏でられるショパンには臨場感のようなものを感じた。
今回はどうだろうか。
そして始まった演奏を聴いて1番最初に思ったことは、なんと音が小さいのだろうかということだった。先ほどの天体衝突のような音楽を聴いたあとに聞くとこんなにもフォルテピアノという楽器は音が小さいのだなと思う。
いや、これはきっと逆なのだ。
現代ピアノはそれほどの馬力を持っているということなのだろう。
ピアノ1台でオーケストラに匹敵する。そう御仁もいつだったか述べていた。
それをまざまざと思い知った気分だった。
1楽章はベートーヴェンの影響が色濃い。
幾分現代ピアノに比べると歯切れの良い音で展開するシューベルト。
だからだろうか。妙に生き急いでいるように聴こえてきた。
ベートーヴェンがなくなったのが1827年。
シューベルトはベートーヴェンの棺を担いだという。
そうして、後を追うかのように翌年の1828年に亡くなる。
そういった背景に引っ張られている自覚はあるものの、
現代ピアノとは全く違う音色に、妙な歯切れの良さ。
響きの幾分抑えられ、儚げに短く消える音色にそう思わずにいられなかった。
2楽章・3楽章と進んでいく。
そうしてまた気が付く、いままでよりもより鮮明に打鍵の強さや
ペダルの操作音、音だけではない様々な余白部分の音を耳が拾うようになっていることに。
この時代のピアノは、その当時にはこんなにもたくさんの音を間近に感じながら演奏を聴いたのかと思うと、少しだけうらやましくもある。
指の動きがダイレクトに音に繋がっているような、少し調整の利き切らないと言っては、怒られてしまうだろうか。
弦を叩くというよりもはじくようにも聞こえる音がより躍動感を与える気がする。
前段でも記載しているけれど、幾分せかされるように紡がれていく4楽章。
でもそこにあるのは絶望よりもやっぱり希望のように聴こえる。
最晩年のシューベルトは、かなり苦しんだようだったけれど、それでも死の間際までレッスンを受け、曲を書き続けた。
この凄まじいまでの執念とはいかほどか。
自分が死の間際にそんなにしがみつくように生きられるだろうか。
このソナタは4楽章が好きなのだ。
どこか終わりに向かうことに躊躇がないような気がして。
どこか終わりに向かうことを愉しんでいるかのようにも感じる。
どこかライトに駆け回るフォルテピアノの音が、いつも聴く現代ピアノではない響きに浮かれながら。
そうして最後には、おしまい!と高らかに告げるように終わる。

さて、アンコールである
en) ショパン コントルダンス 変ト長調
今日は何を弾くだろうそう思っていたところにショパン。
実に御仁らしい選曲である。
今回使用されているフォルテピアノは1825年にヨハン・クレーマーが製作したフォルテピアノだ。
ちょうど、ショパンが15歳くらいにできたピアノであると。
そしてアンコールには17歳の時に作曲した曲を弾きますと。
この曲をフォルテピアノで弾くのがとてもいいとどこか嬉しそうに語る御仁を見て、本当にこの人は…とひそかに思う。
そうして奏でられたコントルダンス。
少年ショパンが、嬉しそうに演奏する様を想像してしまう。

強烈な現代曲に始まり、最後にはこんなにもほほえましく思える曲で終わる。
人と成りを語れるほど親しい人間では決してない。
でも、最後はやっぱり優しくなってしまうそういう人だなと思う。
結局は、この人の演奏を聴き終えたとき、そこに残るのは人としての体温なのだと微笑み万雷の拍手を受ける御仁を見て、1人苦笑する。

この日はサイン会があった。
例のごとく、話したいことは山ほどあるが、結局何も話せず終わるのが私だ。(おい)
でも4月ごろから多少は私も慣れてきたのか1往復くらいはまともな会話にはなるようになった(4年も見てるのに!!!!????)
この日は翌週の大阪へラヴェルの協奏曲を聴きに行くことを告げてみた。(その前に今日のことjust now!!今終わったリサイタルの感想を伝え忘れるポンコツ)
そうすると「あ。いらっしゃるんですね。…………………………………はい。ぜひいらしてください」とだいぶ長めの沈黙を挟んでおっしゃっておりました。並々ならぬ意欲…言葉にしないようにがんばったのかな……

あまりにも情報が山のようにあって、帰りの電車では疲労困憊だった。
でも、最後の最後のショパンはやっぱりこの御仁のそばで音楽を聴くのが一番だとふわふわと帰る羽目になるのだ。

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いやーーーーーーーーーーーーーーラッヘンマン難しすぎました…(爆)
正直自分でも何かいてるかよくわからなかった…
結局私の聴いた靄の正体は、倍音なのかただの残響なのか…
いまだにあれがなんだったのかよくわかりません。
ただ、実演を聴いて再度セリナーデを聴きなおしながら今に至るわけですが、前よりはちゃんと聴き通せるようにはなりました…
ただ………耳がものすごい疲れるけど…
あんまり何回も聴くものではないかもしれません…
ほら…奥さんに向けた音楽だし……(怒られろ)

ひとまず、今回聴いたものをもやもやとさせておくより言語化しておこうと思い書いたので、たぶん最後までお読みになれた人がいるのかわかりませんが、ありがとうございました。
むしろこの謎だらけの文章の相手をしてくれる人いるのかな…
私の聴いた靄の正体にお心当たりのある方、お返事をお待ちしております。(おらんだろ)

さて、務川慧悟ファンの皆々様。
とうとうやってきてしまいますね。
ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調の公演が…
正直もうすでに緊張がやばいです…
ちゃんと大阪にたどり着かねばなりません。
皆さん…会場で顔は合わせないかもしれませんが、生きて帰りましょう。