光彩鋭利の理論構築
皆様こんばんは〜
さてリサイタルレポートの更新がすっかり疎かになっておりました…
さて皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。
性懲りも無くまたもや吐き散らしの季節がやってきてしまいました。(勝手にやりなさい)
こちらですね!
すっかり有名企画になっておりますね!
東京芸術劇場presents VSシリーズ
務川慧悟 vs ナターリア・ミルスタイン
こちらですよ。
オールストラヴィンスキープロですってよ奥様!!
3大バレエですわよ!!!!?????
行かないわけにはいかないですね。
ましてや、務川さんのお相手ナターリアさんをお呼びしたのは務川さんご自身とくりゃもう行くしかありません!!!
演奏会自粛……………?はてなんのことでしたか(おい)
というわけでいつもの如くわしは1人で抱えていられない女………いってみましょう。
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オールストラヴィンスキープロ
・ストラヴィンスキー/組曲「火の鳥」[1919年版]
・ストラヴィンスキー/「ペトルーシュカ」からの3楽章
・ストラヴィンスキー/「春の祭典」
en.1 チャイコフスキー(エコノム編)/くるみ割り人形より「金平糖の踊り」
en.2 ショパン ピアノ協奏曲第1番より 2楽章「ロマンス」
ストラヴィンスキーといえば、やはりこの3大バレエが有名だろう。どの曲も人気の高い曲なのは間違いないが、2台ピアノで取り上げられやすいのはおそらく「春の祭典」が多いのではないだろうか。
ほかの2曲、特に火の鳥はほぼ取り上げられるところを見たことがないレア曲。予習のための音源を探すのに苦労した。
さて、いつもの如く私は務川慧悟ファンなので、話はこの御仁が中心になることはご容赦いただきたい。
彼は、フランスで10年という長きに渡って学んだ男であるが、彼の弾くロシアものというのが、これまたえげつないもので、いつものどこか達観とした立ち振る舞いや、言葉に似つかわしくない、圧倒的なオーラを放っている。
さて、ロシアの作曲家は数多おれど、ストラヴィンスキーというのは、前衛的(使い方合ってないというツッコミは甘んじて受けます←)であろう。
理論的に構築される不協和音、重ねられる変拍子から与えられる緊張感。
そういったある種の冷酷さの蔓延る作品をこの御仁が弾くときの緊張感と強制力の妙技は、何度体感しても衰えることなく我々を興奮の渦へと巻き込む。
1曲目:火の鳥
前置きはさておき、ド頭からレア度MAXのこちらから。1st.務川氏、2nd.ナターリア氏。
おどろおどろしい出だしから徐々に徐々に物語は進んでいく。時折現れる印象的なパッセージ。
そこから一気に超絶技巧の世界へ。
これが圧巻であった。奏でられる色彩の多さ、これだけの技巧の世界で決して失われることない丁寧さ。そして時折突き抜けるように高音が我々に星々の煌めきのように通り過ぎていく。
息のあった2人が紡ぐ火の鳥。これが本当に初めてのデュオなのだろうか。と思わされる息の合い方をしている。複雑怪奇に、そして時に妖艶に美しく絡み合う1stと2nd。さらに独特のタイミングで配置されるスタッカートやアクセント。2人の音色、持ちうるテクニックの違いが綺麗にミックスされ、新たなものが出来上がる。
御仁の持つ多彩な音とナターリアさんのどこか芯がありながら硬くなりすぎない洗練された音が合わさって生まれる光り輝くような音楽。そこにまるで衣装のようにストラヴィンスキーのつくる不穏さを纏うことができるのだから、音楽家というものは本当に魔法使いのようだ。
ところで、本日の御仁の奏でる高音の煌めきは、スタインウェイだからこそ、と言うだけでなく、新たな技が追加されたのではと思わざるを得ない。
あんた…………どこまで戦闘力上げるんですか……………………?(おい)
特に圧巻はやはり魔王カスチェイの凶悪な踊り。
力強く、そして強烈に印象深いこの楽章。オーケストラ版でも有名なこの箇所をピアノ2台で表現する。
ここでも、2人の音色の違いが、冴え渡る。
キラキラとひかり溢れ出す高音。力強く地を踏み締める低音。2ndを務めるナターリア氏の力強いこと。女性ではあるものの、それを感じさせない、そしてあの異様なオーラを放つ御仁にまったく対等に渡り合うその様は、やはりこの方もソリストを極め歩く者なのだということを痛烈に我々に意識させる。
日本初来日、そして御仁曰く、フランスでは彼より名の知れたピアニストであるとのことであるが、まだまだ素晴らしい才能を持った音楽家が世界には存在するのだということを思い知る。
そして、その凄まじい光と共に終曲へ。
フィナーレへ向けて、その光はさらに輝く。
徐々に階段を登るように、突き詰められそしてそのまま荘厳なラストへ。
2台ピアノだからこそと言ってもいいかもしれない煌びやかさであっという間に駆け抜けていった。
2曲目 ペトルーシュカからの3楽章
1st.2nd.交代してのスタート
こちらは盟友反田恭平氏とのツアーの時にも披露された曲である。
先ほどの圧巻の火の鳥を聴き、否が応でも期待値は上がる。
出だし、どこかコミカルさのあるペトルーシュカの旋律である。
これは…………2人ともフランスで研鑽を積む者同士。なんて色彩だろうか。まさに芸術の都フランスらしい華やかさである。今度は玩具箱をひっくり返したようでもあるし、何かのパレードのようでもあるし、ともかく華やかだ。
ストラヴィンスキーといえば、やはりフランスでの活躍が著しい作曲家の1人であろう。
フランスでロシアバレエといえば、バレエ・リュスであり、ディアギレフである。
才覚を見出されたストラヴィンスキーが作り上げた傑作バレエ音楽。
御仁ものちのトークで話しておられたが、まさにロシアらしさをふんだんに盛り込みながらも、フランス特有の華やかさや、瞬間の美しさ、光のような煌めきが際立っているように思う。
そんな曲を、フランスを拠点に構える2人が演奏するのだから当然の結果かもしれない。
どこかわくわくとするリズムに2人のつくる音色の違いとテクニックの違いがスパイスのように効いてくる。1st.を務めるナターリア氏からも負けず劣らずの色彩豊かなピアノが聞こえる。パチパチと花火が光るように、おもちゃたちがパレードを踊るように、2nd.に回った御仁のピアノも相変わらずである。
今回1st.側に陣取っていたし、運良く比較的前方の席を確保できたせいだろうか。とはいえ、どちらのピアノが聞こえているのかがここまで明確なのも珍しい。それほど、おそらく2人の技術は違う。しかし、そんなことは瑣末なことだ。驚異的なのは差があったとして、それが互いにスパイスになり、予想を遥かに超える音楽がそこに嬉々として存在し、展開していくことの奇跡である。
それにしても…ナターリアさん……おてて大きいなぁ………指長いなぁ…………(どこに感心しておる)
真面目に言えば、大きく、長い指はラフマニノフを彷彿とさせる。そこから繊細に、時に大胆に使われ放たれる音は本当に男性ピアニストとも引けを取らない。そういえば、河村尚子さんとメルニコフ氏の2台ピアノのときにも河村さんにその印象を持った。
もしかすると、世界で活躍する女性ピアニストはみんな一定量そういった技術というか体力も必要なのかもしれないと少し思う。
ピアノという楽器そのものが、おそらく女性向きの楽器ではないからだ。女流の音楽家が登場するのはロマン派以降だったのではなかったか(あ。ごめんなさいめちゃくちゃ適当なこと言ってます……怒らないで……………)。いたのかもしれないけれど、目立った演奏家はたしか…たぶんいない(おい)
ピアノの前身であるフォルテピアノが開発されたのは古典派の時代。男性が弾くことを想定というか、女性が弾くことは想定に入っていなかったのではないかとうっすら感じている。あくまで、なんとなくうすらぼんやり歴史に目を通した素人の戯言である。
話が逸れた。
さて場面は転換し、ペトルーシュカの部屋である。
怪しげな音色と気配。
不協和音と不可思議な世界。
そこでも時折煌めくピアノの音のなんと澄んで、突き抜けていくことか。
どこか色気さえ漂ってくる。
そしてまた複雑怪奇に絡み合っていく、本当に機械仕掛けの人形なのではないかと錯覚する噛み合い方。もちろん機械でも、こんな彩豊かで時に繊細さを伴う音を出す技術は開発されてはいない。
人であるからこそ人ではないものになれるのかもしれない。けれど、そこには間違いなく計算された音列と技術が存在する。
さぁ。3楽章になってしまうのが惜しい。
これだけ技巧的なのに、どこか遊び心を感じる。
もはや2人とも難曲2曲目であることを感じさせず余裕すら見える。
遊ぶのが楽しくて、ピアノを弾くのが楽しくて仕方がない子供のような。
もちろん目の前の2人は大人だけれど笑
物事はなんにおいても技術的裏付けがあってこそ自由になれる。
もうこの2人が今回初めて組んだデュオなんてことは忘れているだろう。まるで何かに取り憑かれているかのように噛み合った歯車はどんどん加速する。
音楽って、楽しいね。
3曲目 春の祭典
さて再度1st.2nd.入れ替わり、最終曲。
春の祭典である。
ストラヴィンスキー最大の衝撃作といっていい春の祭典。
2台ピアノ版を聴くのは実は2回目。
1回目は務川氏の師匠に当たる青柳先生との共演のときである。しかし、体調不良もあって途中退席する羽目になってしまい、結局最後まで聞けなかった……トホホ……
というわけでリベンジマッチである(お前のことはどうでもいいだろ)
前半2曲でこのデュオの破壊力は証明された。
どのような春の祭典が繰り広げられるだろうか。
静かに奏でられる起点の主題。
もうこの時点で前半とは打って変わった緊張感が漂う。
徐々に緊張感が高まっていく。我々の集中力も凝縮していく…
怪しげに近づいてくる。さて祭典の始まりである。
あの地を踏み鳴らすような打鍵。
寸分の狂いもなく2台のピアノが踏み鳴らす。
装飾の高音が跳ねる。地を這うように中低音が鍵盤を蠢く。
それにしても本当に噛み合い過ぎではないだろうか。そして、これほどに凶悪な打鍵にも関わらず、奏でられる音色の多彩さはそのままである。
つんざく不協和音すら美しく聞こえる気がする。
そんなことより、これだけの狂気にあっても2人の表情は冷静そのものだ。
時折現れる神聖なメロディにはどこか妖艶さまで付いてくる。
さて、曲は前半を突き進む。
これほどおどろおどろしいのに、どこか理路整然とした雰囲気に引きずられていく。音の渦に巻き込まれるその刹那。
急に音がザンッと途切れる。この瞬間の静寂。
誰一人動かなかった。まるで、客席から人が消えてしまったのかと一瞬錯覚するほどに。
この瞬間。もしかすると前方の席にいたからかもしれない。けれど、確かに背後の奥の奥まで静寂が渡り歩いた気配を感じた。
これほどに会場と奏者がシンクロし、共鳴してしまう瞬間。
前にも一度体感した。誰もがこの瞬間音を立ててはいけないと本能的に、あるいは意識的に察知する瞬間。これは決して偶然の産物などではない気がする。無意識あるいは意識の共有。これがあるからコンサート通いはやめられない。
私というあまり人の世に上手く馴染めない人間にとって、静寂とはある意味で生命線だ。これを得られるか得られないかでは決定的な致命傷になってしまう。普段生活していて、時折音に押しつぶされてしまうような錯覚に陥ることがある。
人と人の会話の中で誰とも意識を共有できず、かき消えてしまうのではないかと恐怖する瞬間がある。人間は恐ろしい。それでも人として生まれた以上耐えていくしかないから、なんとか逃げ場所を用意する。
けれど、なかなか充分なセーフハウスというものは作れず、結局は自分のどこかを壊して鈍くする。
人であれば少なからず誰もがやっていることだ。
けれど、壊れたものが突然違うかもしれないと思う時もある。慣れてしまってもどこかで、こんなはずではないと湧き上がる声がある。
そんなとき、出会ってくれたのが音楽だった。
そして、そんな音楽は、思わぬ副産物をもたらした。
それが"間"という静寂だった。そして皮肉にも人との繋がりだった。
ホールという空間において、100人だったり2000人だったり、人が集まる。それだけの人が集まれば、同じ動きなどできようはずもない。
生まれも育ちも性別も、生きてきた環境の全てが全く異なる人という生き物。それだというのに、その瞬間、全ての人と感覚が共有されることの美しさ。もたらされる静寂になんともいえない興奮を覚える。これを主導する目の前の音楽家たち。
これほどの至高の静寂をどこで得られるというのだろう。これほど、人と同じ感覚を持てるという実感があるだろうか。
もしかしたらこれは私だけで他の人からすればそんなこともないのかもしれない。でも、それほど人と繋がることが得意でない自分にとって、あまりにも奇跡に近い瞬間だ。
普段、繋がらないことを嘆きすぎないようにしている。それを嘆いたところで意味はない。どれほど注意を払おうとも、同じでない人間が誰とでも繋がり、共有することができるなどということは決してない。だからこそ、あの空間で共有されることに価値がある。
そして、その至高の瞬間をより多くもたらしてくれる人こそ務川慧悟その人なのだ。
少なくとも、私にとっては。
今日もその瞬間がもたらされた。
より大きなホールで。
以前トークイベントで、世の中に希望があると語っていた。
私にとってはあまり意識できずにいる希望を、この人を通して少しだけ、私も期待してみてもいいのかもしれないといつも密かに思う。
話を戻そう。
静寂を越え、生け贄たちの時間である。
硬質でおどろおどろしく、しかしどこか神秘的な雰囲気を纏った後半。
恐ろしい緊迫感の中進んでいく。
そこにあっても歯車は噛み合い続ける。
奏でられる音色の冷たさの通り、冷静にしかし着実に生贄たちは進む。
硬質で緊迫していながら、繊細に最新の注意を払うように紡がれる音の1音1音がこれは儀式なのだと否が応でも我々の耳に届く。
この緊迫感。
身体が固まっていることに気がつく。それでもその縛られるような緊迫感が心地いい。
前半の難曲を越えてもなお、さらに集中力は増しているようにさえ感じる。
さらにいえば、前半の煌びやかさがここにきて、逆に硬質に冷たく、ある意味での煌めきを見せてくれるというのはなかなか奇妙なものだ。
この硬質ささえもおそらく計算のうちであろう。
それでいて、運ばれる指捌きは相変わらず丁寧に、強引さもなく、さもそこに行き着くのが当然であるかのように鍵盤へ吸い込まれていく。
そうして紡がれる冷たい音楽はどこか、神秘とは別の色気を伴って目の前で奏される。
ここでもまた音色の違いは、ただただ彩りを与えるプラス要素にしかならない。極めて繊細に、静かに、しかし儀式には似つかわしくない表現ではあるが、煌びやかな装飾を伴い、その空間をさらに神格に近づける。
そうしてとうとう生贄は選ばれるのだ。
死へと続くダンスの始まりである。
そういえば、こちらの公演に備えたわけではないが、2回ほど春の祭典の講演会に参加したことがあった。ストラヴィンスキーがいかに計算し、理論的にこの曲を作り上げたか。そして、プログラムの御仁の解説にもある通り、ロシア的な要素がふんだんに盛り込まれる。より詳しくいえば、ロシア民謡の旋律に手を加え、まるで今までにない旋律のように見せることをストラヴィンスキーは得意としていたようだ。
その背景を踏まえてこの曲を聴いてみると、バレエの演目としては、生贄の儀式であるが、これもある種の計算が積み重なったようなものかとも思う。
儀式内の踊りには必ず意味がある。それが理性的に考えれば理不尽なだけであったとしても、その集団には集団の理屈があり、理屈を証明するための計算があるとも言える。
そんなことを考えているうちにもっとも複雑怪奇な箇所へ到達する。
ころころと変わる拍子。まさに数字と理論の世界だ。
耳で聞いた時の拍子と実際の楽譜の拍子の印象はだいぶ異なる。しかし、そう書かれていることにも意味がある。これは講演会での知識だ。つまり、観客だけでなく、演奏するものたちにも緊迫感を強要する。実際演ずる2人のピアニストたち。しかし、そこには明らかに緊迫感があるが、それでもなお、付随する不規則に感じるアクセントやスタッカートに独自性が感じられる。凶暴に、しかし決して乱暴さはない。乱暴さがないからこそ如実に立ち現れる狂気性。しかし、聴いていて2台ともに違和感のないパワー。なんとも力強い打鍵だ。指が叩き壊れてしまいそうな気がするが、もちろんそんなことはない。しかし、こうして時々垣間見る冷徹そのもののような音の体現が、強烈に背筋をゾッとさせる。
そして、これほどまでに目まぐるしい楽譜の展開に似つかわしくない歯車の噛み合い。これが、実際には1台のピアノによる4手連弾版だというのだからストラヴィンスキーは一体何を考えているのだろうか。
そうこうするうちにも生贄は踊り続ける。
我々に異様とも言える緊迫感を強要しながら。
そうしてとうとう息絶える。
最後の最後まで噛み合った歯車は崩壊することなく目の前を走り抜けた。
気がつけば終幕。
なんとあっという間の出来事だろうか。
しかし終わってみれば、やはり2人とも和やかにこちらに笑顔を向けてくる。
演奏家というものは本当に不思議だ。
あれほどの緊迫感を目の前で披露しても、演奏が終わればすぐに切り替わる。
緊張感から解放された観客から万雷の拍手。
やっぱりこの時間が好きだなぁ…
それにしても改めて、ストラヴィンスキーの3大バレエを1夜にして敢行するというのはとてつもない時間だなと思う。
これほど前衛的に作り込まれた作品であっても、抒情性が失われることなく表現される。ストラヴィンスキーは間違いなく天才だったということだろう。
ただ凶暴な音楽を作っているわけではない。そこには必ずしも理論が存在する。複雑に絡み合う音という数字が数式のように楽譜になる。
自分で読み解ける方々が羨ましい。
そして、そういう分析を演奏を生業にする人たちは必ず通るのだろう。
今日の2人の歯車の噛み合いはそうした明晰な頭脳からもたらされているということもあるかもしれない。
それにしてもナターリアさんの最後の1音めちゃくちゃかっこよかったな……長い腕から繰り出される最終音…………なんだか生贄が刈り取られる瞬間を見たような気持ち………(何を言っている)
さて。皆さんお待ちかねのアンコールタイム。
1曲目はくるみ割り人形。
しかし……あれだけ弾いてまだこんな音楽が弾けるんですか………………?まるでオルゴールのように、今まで轟音を轟かせていたとは思えないほど繊細にガラス細工のように奏でられる金平糖の踊り。
思えばこちらも「踊り」どこまでも考え尽くされたものだ。
トークパートは…………断片は覚えていますが、他の方にお任せしましょう←
そういえばナターリアさんプロコフィエフもお弾きになるとか。務川さんはどうやら束の間の幻影を聴いたみたいなので、これは音源を探さなくては……(束の間の幻影好き)
いつか務川さんにも弾いてほしいですね!(強欲)
そしてアンコール2曲目はショパンピアノ協奏曲第1番2楽章。
2台で弾くPコンは初聴きなのだけれど、ナターリアさんソロの繊細さ……き、綺麗だ………
そして、やっぱり伴奏であっても手抜きのない御仁のショパン。本当に考え尽くされたものだ。
伴奏…………ってなんでしたかね………(?)
まさに協奏曲だった。
数多の計算と理論。しかしそこに付随する計算だけでは表されないなにか。
まばゆく光るその中で、展開される数式の情報量に圧倒される1夜になった。
やはりこの御仁のいるところでは"なにか"が起こる。
いつだって、手抜かりはないし、こちらも手を抜いてはいけないのだ。
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はい。久しぶりに書いても長いですね!
いつものことながら最後までお読みいただきありがとうございました。
………え、エグかった………VSシリーズ……
前回予定されていた藤田真央さんとのVSが流れてしまってからのようやくの開催…
さすがに藤田さんとのブッキングはなしかー🥲と思っていたところにやってきた、ナターリアさんの演奏…とてもよかった……さすが我らが務川さんのお選びになるお方…初来日のピアニストを引っ張ってくるとは……………今度はナターリアさんのソロリサイタルも行ってみたいですね!また日本来てくれるかなぁ🥺
それにしてもストラヴィンスキー…あの3大バレエをピアノで聴くと、なんだかより緻密さというか、理論的に冷静に作られていることがわかる気がしました…
本日も本日とて、相変わらず音のバリエーションの多さよ…今回は特に高音の音に破壊力がありました。
いやいつもだな?🤔(おい)
なんというか、本当に硬質で冷静でありながら突き抜けるように透明で、実はピアノ線がガラスでしたと言われても俺は信じるぞ……!!(そんなわけはありません)
たぶんあの方の音を表現するための冷静さみたいな部分が発揮されきった瞬間かなという気がしました…
あぁいった理論的な音楽を弾かせた時の冷静さは相変わらず本当に痺れる………
ただ冷静なだけではなくて、もちろんちゃんと歌いどころがあって、それもまた………というかずいぶん今回余裕綽々な感じでしたね……
というかめちゃくちゃゴキゲンだった…………
いやーかっこいいところ全部詰まってました………
やっぱりこの方のそばでは何かが起こって、そしていい音楽がそこにあるという確信にブレがありませんでした。
楽しかった……………
さてお次はこれまた衝撃作でしょう!
東フィルさんでメシアンですよ…
トゥランガリーラ交響曲。
予習をしておりますが、全くもって掴めてません!!!(おい)
しかし、かなりこちらもメシアン独自の理論で出来上がった世界………これは……………期待していいのではないでしょうか………
楽しみですな!