閃光の一夜
どうもこんばんは〜
いやーまさかすでに公演から1週間経っているとは思いませんでした。
NHK音楽祭2024
N響×シャルル・デュトワ×ニコライ・ルガンスキー
こちらです。
N響とデュトワがそもそも共演するのがたしか実に7年ぶりくらいとかなんとか。
行くしかない‼️と先行抽選の時点でチケットを確保して待ってた…………🥺
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プログラム
ラヴェル: マ・メール・ロワ
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
ストラヴィンスキー:春の祭典
デュトワの指揮は2年前に新日本フィルさんの公演で聴いたのが最初で、まだフランス音楽齧り始めましたくらいのときに、フランスものといえばみたいな感じでデュトワと出会う。
初めて聴いたデュトワ指揮の公演の鮮烈さはいまだによく覚えている。長い腕をフルに使い、時に大きく、そして時に踊るようにする指揮から繰り出される色合いの鮮やかさとか放たれるエネルギーとか、今でもちゃんと肌感として存在している。
それから機会をてんでのがしていたけれど、N響との共演ともなれば、これは行かざるを得ない。
実現して欲しかった公演の1つ。
またこの世の未練の1つが消化されたようだ。
1曲目:マ・メール・ロワ
N響で聴くのは2021年1月定期以来。
その時は沼尻さん指揮で、バレエ版だった。
今回は組曲版。
今のN響でフランス音楽を聴くとき、いつも好きだなとなるので、プログラムに上がった時点でなるべく聴きにいくようにしているけれど、そもそもラヴェルが好きだし、上記公演に行ってなかったらもしかしたら今N響の定期会員になってなかったかもしれず、思い出深い。それをデュトワの指揮で聴けるとなれば、迷う余地なし(蓋を開ければめちゃくちゃ迷ったけどw)
1曲目が始まる。出だしのフルートの音色。この時点で成功は約束されたも同じだった。
紡がれていく木管楽器の音色。受け継がれていく旋律。まるで、少しでも触れたら壊れてしまいそうなほど繊細に、小さく。
誰もが息を潜めていた。誰もが耳をそばだて、その小さな小さな秘密の世界に耳を傾ける。
マ・メール・ロワは、もともとは4手連弾、ピアノ用の子どもたちのために書かれた曲。
マザーグースをベースに作られているだけあって、各曲のタイトルよろしく、おとぎ話を聴くような気分になる。子ども好きだったラヴェルらしい可愛らしくも少し遊びがあったりする、優しい曲だと思う。
おとぎ話といえば、子どもたちの世界。それは絶対に大人たちに覗き込まれてはいけない世界だ。
だからこそ、耳にする私たちは気づかれないようにその秘密を覗き込まなければならない。じっと息を殺して、静かに。
そんな風に、まるでデュトワに口元に指を当てて、「静かに、内緒だよ」とでも言われているみたいだった。
そんな小さな小さな音の世界で、多用される各パートのソロのなんと見事なことか。これほど出だしに気を使う曲もないかもしれない。密やかに決して騒ぎ立てずにスルッと美しいメロディを奏でてしまう。きょ、今日もすごいぞ……
それにしても、ソロを担当する方々の音色、痛感する魅力はさることながら、たまにそれは同時に2種の楽器で奏でられたり、それでもブレず、どちらかが霞むようなこともなく、互いに存在する音のバランス感覚と共鳴が素晴らしい。
そしてここでも発揮されるN響弦セクションの音の束感。今日に至っては、その織物のように織り込まれた音が薄いベールのように気がつけば肌に馴染んでいた。本当に違和感なく気がつけばそこにあった。
こんなにも静かに奏でられる音楽で、音量的にも抑えられているのに、耳に届いた時"音が小さい"と感じていながら、= 聴きづらいにはならないその手腕に身震いする。
そして、その技術に裏打ちされた完成度の高さは、聴取を黙らせてしまう。みんな目の前にある秘密の箱庭のような音楽を壊さないように神経を尖らせる。そこの住人に見つかってはいけないみたいに。
でもときどきそこには微笑むような空気が漏れ出ている。
N響を定期的に割と高確率で聴くようになってからしばらく経つけれど、ときどきこうして現れる、驚くほどすべてが一つの世界に神経を尖らせ、誰もが今のこの空間そのものを維持することに注力する瞬間が本当に好きだ。というよりも救われる。
言葉を使わなくても、攻撃的なことをしなくても、そこには誰もが幸福でいられる瞬間、場所はあるのだと思わせてくれる。事実、今自分の手元にある。
少なくとも、私にとってそれは、今を生きることを繋ぎ止めてくれる命綱みたいなものだ。
そんなこんな考えているうちに最終曲、妖精の園に至る。ずっとさまざまな場面を繋ぎながら、様々なソロや合奏を紡いで作り上げる幻想の先にこれほど美しい園がある。出だしの和音。その幻想的ということすら生ぬるい幻の音がなった瞬間の、鳥肌が立つような背筋が伸びるような感覚は、また一つ忘れられない肌感をもたらしてくれる。
妖精は気まぐれに人を助けてくれる。しかし、時にその好意は人を惑わし、妖精の国に連れていってしまう。妖精に魅了された人間は妖精の世界からは決して帰ってこれない。
まるで終盤ヴァイオリンとヴィオラの二重奏が、妖精の声みたいだった。人を惑わし連れ去る案内人のように。
そろそろ終わりが見えてくる。妖精の世界の扉に近づいていくみたいに。
最後の最後、鳴り響く豪華な和音が空中に帰る時、妖精の世界の扉は静かに閉じる。
綺麗に空中に音が消えきるまで、会場はただ静かだった。
曲が終わり、万雷の拍手の中、コンマスを務める郷古氏とVa.首席村上氏が顔を見合わせて互いに褒め合う姿が……………やめてくださいそんなことされるとオタクは消えます………………(うるさい)
2曲目:ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
ルガンスキーの演奏を聴くのは2度目。1度目はラフマニノフの1番を演奏する公演で、動画では見たことがあっても、実演は初めてで、ちょっと憧れの人であったので感動したのを覚えている。
あとでかい。身長高いし、腕・足長いし、手がえげつなく大きい…え、巨人?って思ったのはここだけの話(怒られろ)
そしてこれまた憧れの2番。
この曲には何度も助けられてきた。今回のプログラム思い入れつよつよすぎて、すでに呼吸困難が………
失礼、話を戻します。
出だし、奏でられる鐘の音。
しっかり重々しく鳴らされる鐘の音。
この時点で、この協奏曲が弾けるか弾けないかが別れると聞く。出だしの和音は手が大きくなければ全ての音に届かないからだと。私自身はピアノが弾けないし、どれほど物理的な断絶があるのかはわからない。ただ、現代において、ここをアルペジオで奏する者もいるので、もしかしたらこの話も古いのかもしれない。
ただ、ルガンスキーにとってはおそらくなんら問題ない和音。それを、しっかり、確かめるように打鍵し、音の柱が伸びていく。
この鐘の音をラフマニノフが、どのような意図で冒頭に配置したかわからないけれど、例えば、ロシア教会の鐘の音の模倣であるならば、ここはやはりこう弾かれるべく配置されている気がした。
その鐘の柱を抜けた先、オケが合流するも、ルガンスキーの強い打鍵はそのままだ。
驚いたのはオケの音だった。
豪奢で甘さを含む旋律が、強く鮮やかに響く。
当然のことながら、ここはオケの1番最初の登場シーンかつある意味見せ場とも言える場面であるけれど、想像していたよりも強く響いた。
まったく、まだ協奏曲の出だしというのに、これほど本気で来られると舌を巻く。
しかし、ルガンスキーの鐘の音はまったく掻き消えない。
拮抗するオケとピアノ。
これこそが協奏曲だなと思う。
どうしてもピアノに注目してしまいがちなラフマニノフであるけれど、オケの奏でるロシアを感じる旋律もまた魅力の一つであることを強烈に思い知る。
オケとピアノが交互に旋律を作っていく。
ラフマニノフの協奏曲といえば、2番か3番かの論争になりがちだけれど、完成度・成熟度について、3番の方がより洗練された完成度を持っているのは確かだと思うし、音楽解説の方、演奏家から見てもそうなのだからそうなんだろうとも思う。
ただ、私はこの2番が好きだ。完璧ではないのかもしれないし、背景にあるラフマニノフの出来事に引っ張られている自覚はあるけれど、それでも成熟し切る手前だからこそ存在する様々な思いや出来事は、人を作る上で基盤になる。そして、人間は常に欠陥のある生き物であるわけで、未成熟であるということはある意味でとてつもなく人間らしい部分で、そこを窺い知る、ある意味でとても感情的な、統制されていない部分を見れる気がする。
そして、ラフマニノフもまた、この曲によって大きな山を一つ越えたという事実が、そういう実感がこの曲にはある気がするのだ。
そんなことを考えているうちに、1楽章後半のオケとピアノの対旋律が現れた時、目の前でガラスが割れ、飛び散るような気分だった。
見事なまでにオケとピアノは対等だった。
どちらかが掻き消えることなくそこに存在した。
鮮烈。
この言葉以外になかった。
どちらが主役かを決めることなど無粋である。
こんなにもオケもピアノも同時にあって、どちらも対等に耳に届き、どちらの色も遜色なく、そこに広がった景色が、どれほど鮮明な色だったか、どれだけ言葉を使っても表現は難しい。
その後に響くルガンスキーの憂いを帯びる音色が、前段によってさらに明確に映し出される。
豪奢な門を抜けて、少しだけ寒さを感じる、2楽章を予感させるような寂しい美しさ。
それにしても、ルガンスキーあれほど大きな手からこれほど繊細な音が出るというのはとてつもない。
またオケとピアノが相互に奏でながら、1楽章を駆け上り終わりを告げる。
そして2楽章。
いつも2楽章になると余計なことを思い出してしまう。というのが個人的にはあるのだけれど、ルガンスキーのピアノを聴いていて、ふと気がつく。
ルガンスキーは必要以上にラフマニノフを甘くしない。
ここぞという部分以外をためをつくらずに進行していく。
ここぞという部分にあっても、必要以上に甘々しくなく、嫌味なく色気だけを纏わせていく。
まるで気軽に散歩でもするように奏でられる2楽章になんとなく胸を撫で下ろした。
そこにあるのはオケとピアノの会話ようなやりとり。
それにしても、この曲はこれほどにオケとピアノが相互に語り合うのだなとなんとなく思う。
時折顔を出す各パートのソロ。
聴き慣れていても、何度聴いてもやっぱりN響の音が好きだなと思う。
特に1楽章でいやというほど思い知らされたこの対話の対等性。
そこにあっての2楽章がどれほどのものかと言われれば、語る言葉を思いつかない。
もしかすると、オケとピアノの解釈は少し違うのかもしれないが、そんなことは瑣末であるとでもデュトワに言い聞かせられている気分にもなる。
きっとこれは気のせいかもしれない。
だって、目の前にあるこの協奏曲はなに不自由なく協奏曲で、そこにはオケとピアノの会話がある。その事実だけは疑いようもなく配置されている。
少し寂しいような風が抜けていく。
こういうとき、いつも演奏する側はどんな気持ちなのだろうかと思う。
それを窺い知れないのが、聴衆という立場の少し寂しいところだ。
互いが互いに引き立て合いながら、美しくもどこか悲しく、どこか寂しいその2楽章は晴れた秋空のごとく過ぎていく。
さて、3楽章。
正直ここまでくれば語るものはなにもない。
ただよく響くルガンスキーの音はどこまでも高らかだなぁと思う。
ここでもオケとピアノの交互の会話は続く。
この曲の"曰く"が常に頭を掠めていたけれど、この日は不思議とあまり感じなかった。
ただ、終わりの足音に後ろ髪を引かれ続けた。
なぜなら3楽章はあっという間に終わってしまうから。
くるくると展開する場面。
ピアノが駆け抜け始めるともう終わってしまう。
対等に鮮やかに走る協奏曲。
ただ曲の完成度、明彩度、このどれをとっても、今まで聞いたものとは違っている気がする。
この曲をこんなに鬱々しく聴かなかったことはなくて、自分でも驚く。
それでも、自分の中で確かに掴まれる何かはあって、泣きそうになる。
今までとは違う意味合いで響くこの曲が嬉しかったりもして、相変わらず文字数を使うくせに本当になにも説明できない。
さて、曲も最終盤。
ピアノがまた高らかに翔ける。
その先でまたオケとピアノが対等に、晴れやかな瞬間を形作る。
まるで教会の鐘の中何かが解放されるみたいに。
終わりの瞬間に向けて進んでいく。
そのころにはただただ、いつものごとく泣いていて、演奏シーンは1mmも見えなかったけれど、眩しくもあって、どこか気持ちが晴れてもいて何とも言えない。
いつも何が悲しいのか、何がうれしいのかわからないままだけれど、今日はより一層わからなかった。
ただ、今日、この日の演奏が聴けたことがうれしかっただけかもしれない。
さて、終わりが来る。
軽やかなピアノと共に、ラフマニノフ終止により幕が閉じた。
ソリストアンコールはラフマニノフ リラの花
この曲を私は聴いたことがなくて、ただ、なんとなくラフマニノフ何だろうと思った。
あの協奏曲の跡に、これほど儚げで、でもどこか優し気に奏でられるこの曲が、さらに涙を誘った。
これは余談だけれど、この日はクラシックのコンサートに行ったことない友人(良き隣人)が一緒だった。
演奏終わりにそれはそれは、笑っていたけれど、馬鹿にするでもなく、それくらいよかったんだねーなんて言ってくれる、心優しい友だったことが、さらにうれしかった。
いや本当に来てくれてありがとう…(まだ後半があるね)
3曲目:ストラヴィンスキー春の祭典
休憩を挟み、打って変わっての春の祭典
春の祭典といえば、クラシック音楽業界に激震をもたらした驚異の曲。
というのは、クラシック音楽を聴く者の間では当然の認識、後世の作曲家たちに多大なる影響を及ぼしたこの曲について、初めて出会ったのは、なんとオケではなく、2台ピアノ版であった。
クラシック音楽を聴き始めて割と序盤にこの曲に出会って、おそらく、ラフマニノフやチャイコフスキーとは違った方向性に衝撃を受けていた。たしか、プロコフィエフに先に出会っていて、どちらかといえばこちらに近いと当初思っていたのはたしかで、同時期に作曲された音楽との差異に、何がどうなってこうなったのか、よくわからなくて、ただ、かっこいい曲でインプットされるにとどまった。
あれから数年経ち、その間にオケの実演にも恵まれ、さらに音楽解説の講義にもありつき(音楽ライターの小室先生の講義、めっちゃ楽しかった…)、実はスコアも持っている。
そんな春の祭典だけれど、不思議と一番演奏しそうなN響での実演は一度も遭遇できなかった。それがここにきて演奏されるとか…
我得で………しかもデュトワですぜ旦那……(うるさい)
相変わらず前置きが長い。
さて、ファゴットから始まるウクライナ民謡からの引用。
完璧な第一音。
水谷首席………さすがです………
ぞわぞわとうごめくようにオケが鳴り始める。
徐々に徐々に楽器が増していく。生き物が集まってくるように。
この時点で、N響の集中力が凝縮されていて、身震いが起きる。
もともと緊迫感のあるこの曲にあって、どの音も完璧に配置される。
まったく、これほどの緊張感の中、完璧に鳴らすN響メンバーの肝の座り方というのはもはや化け物に近い。
おそらく、春の祭典は人気が高いし、N響の歴史の中でも嫌というほど弾いてきたであろうけれど、とはいえその緊迫感は計り知れないものがあるような気がする。
そんなことを考えている間に、例の8分音符の足音が、Vn.のピチカート共にやってくる。
さあ。祭典の始まりである。
全体が同じ音型を叩き始める。足を踏み鳴らすがごとく、地を蹂躙する。
その圧力のすごさに、金縛りにあったみたいに、身体を硬直させる。
もともとN響が音型を同じくそろえて奏されるとき、本当に一糸乱れぬとはこのことを言うのだというのを地で体現する。弦楽器などはボーイングの型ですら、驚くほど揃ってしまう。この光景は何度見ても飽きない。
中にはそれを無個性と評する人もいるだろうが、これだけ個性豊かな団員たちにあって、むしろ無個性に思わせてしまうほどの足並みを作れるという方が個人的には脅威だ。N響の弦セクションの束感を最初に聴いたその日からいつだって私にとっては、どの楽団とも比べられない音の厚みとなって夢中にさせてくれる。
最近になって、どの人がどんな音をしているか聴く機会もあって、弦楽器というものがどれほど人によって奏でる音を異にするかを目の当たりにした。よく耳を澄ますと、異なる音がたくさんあることに気が付く。
それが俯瞰になった時、なぜこんなにも束となれるのか。
音色が拮抗して、濁るどころか、織物のように、目が詰まり、圧縮され、まるで一つの楽器のように強固な糸になっていく。
この状況に興奮しないはずはない。
そして、今日、凶暴とも言えそうなこの旋律にあって、尚それが崩れることなく目の前で横行する。
これほど、血のたぎるような瞬間はそうそうお目にかかれない。
そんなことを考えている間にも曲は進行する。
凶暴な舞踏は鳴りを潜め、管楽器が歌いだす。
木管楽器や金管楽器が妙な艶をもって、狂気の祭典を彩る。
祭典は進行していく。
徐々に徐々に熱を上げながら。
そのときだった。
ふと、いつも目立つその人が、今日は妙な霊気を放っていた。
そう。我らがコンサートマスター郷古氏である。
トップサイドに控えるは、10月定期公演で熱いコンマス姿を披露した川崎氏である。
本来このタイミングなら、おそらく川崎氏の方が、熱を上げて居そうなものだが、そこで異様すぎる存在感を放っていたのは郷古氏だった。
いつだって真剣勝負の彼らは、それぞれに存在感があって、それはある意味コンサートマスターという立場において、必要なものだということは理解している。
それにしたって、異様だった。
もちろん、コンマスとしての仕事をおろそかにしているということではない。でなければ、これほどまでに見事な統率など、これほどの曲にあってできようはずもない。
しかし、それを差し置いてもあまりある霊気。
あれを霊気と呼ばずに何と呼べばいいのか。
そんな状態で、狂気の祭典を目の当たりにして、鳥肌を立てずにいられるわけもない。
圧倒的な音圧、凶暴なまでの足並み、そしてそこに驚異の存在感を示すコンサートマスター。
誰もが屈服するしかないシチュエーション。
会場全体がとてつもない緊迫感に襲われているのが肌感でわかる。
こ、これはやばいぞ……!
これで春の祭典第一幕序盤なのだから、ここから先、吹き飛ばされずにその場にとどまることの方が心配である。
そして一呼吸置くようにEsクラが旋律を奏でるのを皮切りに、今度はうごうごと蠢くように弦が地を這い始める。
その上を管楽器が艶めかしく踊る。
さて、第一幕も終盤である。
金管楽器が何かを訴えるように吠える。
そしてまた、狂気の祭典へと戻っていく。
それぞれが意味のある舞踏を始めていく。
それにしても今日のN響はすごいぞ…
今まで聴いたどの春の祭典よりも鮮烈である。
もちろん、個人的な思い入れを抜きにはできないというのはわかり切っている。しかし、それを差し置いても、明らかに異質なものを感じざるを得ない。
どのセクションも完成度の様子がおかしい。
さて、生贄選びへと続く行進が始まっている。
徐々に徐々に迫っている。
そして祭典は最高潮を迎え、第一幕を閉じた。
第二幕。
夜のような、これまた妖艶ともいえる出だし。
さて、生贄の選定の時間である。
異様な緊迫感はそのままに、特殊奏法によって奏でられる、まるで口笛かのような、特殊楽器が使われているのではないかと錯覚するような音を伴って、進んでいく。
薄暗い月夜の晩、少女たちは静かにそこに並べられるのだ。
観客も息をのむ瞬間である。
この肌がひりつくような、呼吸すら制限されるような圧力。
そして恐ろしいほどの美しさを伴って奏されることの誉をどう言い表したらいいだろうか。
本当に長々と述べるくせに、真はなにも伝えられない。
徐々に生贄の候補が絞られていく。
そうして、唐突に今回の春の祭典が今まで聴いたものとは違う理由に思い至る。聴いたことない音が、音感があるのだ。
この楽器はこんな動きをここでしていただろうかと思わされる。
今まで隠れていた音型や音が立ち現れる。
春の祭典の型が、思い込みとは恐ろしいもので、今まで気づかなかった面が浮き彫りにされている。
これがデュトワか。
今まで耳になじみ過ぎていて通り過ぎていたものに焦点が当てられ、まるでまったく新しい春の祭典を聴かされているような気分になる。
同じ春の祭典を、まったく別の方向から光を当てられてみたいな閃光。
まったく、今回の公演だけで、何度目の覚めるような思いをしただろう。
そんなことを考えているうちに、生贄は確実に選ばれている。
デュトワの指揮も腕全体を使い、大きく表現され始める。
生贄決定の瞬間である。
そして始まる死の舞踏。
1人の生贄の踊りである。
ここにきても閃光は失われない。
最後の変拍子である。
春の祭典の楽譜はとかく変拍子である。
聴こえている拍子よりも、実際の楽譜はとてつもない。
そして、これがストラヴィンスキーの仕掛けた、演奏者にも緊張を強いる仕掛け。幾重にも張り巡らされ、計算尽くされたその楽譜。
少女は死ぬまで踊り続ける。
どれほど、気が狂おうとも踊り続ける。
その計算を重ねられた楽譜に飲み込まれることなく、確実に音楽として奏で続ける、求められる水準を確実に遂行するこの楽団の自力。
ここでも、コンマスの霊気は失われていない。異様な存在感はそのままである。そんな最中、どっしりと構えるもう一人のコンマス川崎氏とその更に奥、2nd.首席を務める森田氏の決してその霊気に充てられない安定感が、この狂気の舞踏を強固なものにする。
デュトワの求める、新しい色のついた春の祭典。
そうして、とうとう少女は息絶えるのだ。
終わってみれば、瞬殺ともいえる時間。
今まで聴いたきた春の祭典に別の角度から切り込まれ、別の色が施された鮮烈。
これほど、演奏終わりにちかちかとするような演奏会も珍しい。
ともかく、どこをとっても何かある。
客席の熱狂もすさまじかった。
終演し、さらに舞台上では、郷古氏と川崎氏が健闘するように肩を抱き合う様子に、今回の公演の確かな手ごたえを感じさせた。
む、胸アツ展開……!そ、そんな関係性のオタクにそんなもの見せないでください……熱すぎるよコンマス2人(落ち着け)
友人と会場を後にする間にも、息が上がったみたいに今日起きたことについて、一部の混乱と一部の強烈な閃光は、確実に身の内にあり、今日起きた出来事を反芻するも情報量の多さに、うまく息ができない。
友人に興奮したまま話続け、ずっと1人頭を抱える。
(いや本当に一人で興奮しまくっててすまない隣人…)
また一つ。忘れられない一夜が増えた。
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はい。今日もよくわからない感想でしたー。
毎度のことながら長々々書いてしまいました…
まぁなにが言いたかったって、すごかった…
それだけです。
もう本当に情報量の多い公演でした。
情報量も多ければ、曲が…
曲がすごいボリュームです。
一度ロシア料理のコース食べに行ったことがあるんですが、
その時は、翌日丸一日まともに食事しなかったくらいハイカロリーだったんですが、もうその時と一緒です。
ハイカロリーすぎてかなり時間たってました…。
嘘だろ…もう1週間も経ったの!!!!????
この日は、前段にも書いていますが、クラシックを聴きに行ったことない友人を連れての参戦です!!!
ほぼ私一人が楽しみました!!!!
すみません!!布教らしいことは何もできませんでした!!!
相変わらず、何も知らない人を捕まえて、ただただ話を聞かせる芸風を披露しただけでした……
それでも一応楽しんではくれたみたいなのでよかったなと思っております(ほんとか?)
友人はどうやらマ・メール・ロワがよかったみたいですね。
いわゆるクラシックの名曲で名指しされる曲よりも、そうでもない曲の方がよかったと言われる確率は割と高めです(当社比)
ありがとう友人……
主に私の反応が面白かったようで、それはそれで大変よかったです(笑)
さて、それにしてもN響×デュトワが思いもよらぬ破壊力により、以前のN響との蜜月の日々はどれほど経っても切れてはいないのかもしれないなどということを思ったりしました。
すごかった…
本当に、家帰るまで結構目がちかちかするような感じだったので、本当に消化に時間がかかってしまった…
この日は、なんとサントリーホールで反田×務川の2台ピアノ公演がまるかぶりになってしまい、苦渋の選択の末、こちらを聴きに行ったわけですが、聴けて良かった…
というわけで、私の10月N響祭りは幕を閉じました。
楽しかった。
さて次更新されるのはいつでしょうね…
差し当って11月末に我が王様、務川慧悟さんの演奏会がありますので、その付近が怪しいですね(怪しい)
ではすっかり寒くなりました。
皆さまお体大事に!