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"勝ち組"の父親のようには絶対なりたくなかった【仕事について②】

「勝ち組」という言葉がある。

さまざまな使われ方があるが、一般的には社会的・経済的に優位な立場に立つ人間を指すことが多い。

その意味でいえば、高学歴・高収入・大企業勤務と3拍子そろった父親は勝ち組だった。

だが僕は父親のようにだけは絶対なりたくないと幼い頃から思っていた。


平日の父親


父親が起きるのは朝の5時過ぎ。

6時台には家を出る。

そこから1時間以上かけ、満員電車に揺られながら会社に行く。


家に帰ってくるのはだいたい21時ごろ。

22~23時になる日も珍しくない。

通勤時間も含めれば、少なくとも14時間以上は拘束されていることになる。


帰宅した父親はいつも不機嫌だった。

夕飯ができるまで母親に延々と愚痴をこぼす。

食事が終わると風呂に入り、その後すぐに寝る。

目が覚めたらまた会社だ。


どんなに肩書きが立派だろうが、収入が高かろうが、その生活は僕にとって地獄としか思えなかった。

だが父親のような生活は決して特殊な例ではなく、この時代には

「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」

と呼ばれる滅私奉公タイプの人間が大量にいたという。

以下は1989年出版の『豊かさとは何か』に書かれている当時のサラリーマンの実態である。

帰宅時刻をみると、最も多い帰宅時刻は、男性が午後九時~十時の間で、女性は七時~八時である。夜中の十一時から午前一時までに帰宅する男性が二三・四%もあり、平均帰宅時刻は、十時三十四分。女性では八時二十八分となっている。

暉峻淑子『豊かさとは何か』岩波書店.


休日の父親


「ええ加減せぇよコラ」

父親がよく口にしていたセリフだ。

僕は30年以上生きてきて他人に大声で怒鳴るという経験を一度もしたことないが、父親は毎週のように大声で誰かを怒鳴りつけていた。

その相手は初めて訪れる店のスタッフだったり、電話をかけてきた誰かだったり、幼い僕だったりした。

父親に電話がかかってくると「また怒るんじゃないか」と毎回ヒヤヒヤしていたのを覚えている。

大人になった今でも父親にキレられる夢をよく見るぐらいだ。


怒りはしばらく持続し、そのあいだ壁を殴ったり、物を投げたり、机を叩いたり、何度も舌打ちを繰り返したりする。

怒る理由はどれも「そんなことで?」と感じる些細なもの、もしくは理不尽なものである。


たとえば、

  • 飲食店で待ち時間が長いことにイライラして店員に当たり散らす

  • レンタカーでガソリンを給油せずに返却し、給油してから返すようお願いしてきた店員に逆ギレする

  • 家電量販店で客が大勢いるなか接客スタッフを怒鳴りつける

  • 駅の窓口で腹を立て、窓ガラスを殴り警察を呼ばれる

これらは数あるエピソードのほんの一部に過ぎない。

平身低頭の店員を大声で怒鳴りつける姿を見て、当時小学生だった僕はあんな大人にだけはなりたくないと思った。


父親のこの怒りっぽさは生まれつきなのか、それとも長時間労働の結果もたらされたものなのかは分からない。

ただひとつ言えるのは、多くの人が羨望する"大手企業に勤める高所得者"の父親が、僕の目にはまったく幸福に見えなかったということだ。

何かを強く欲する前に、現にそれを所有する人がどれだけ幸福かを確かめておく必要がある。

ラ・ロシュフコー『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳,岩波書店.


"勝ち組"の裏の顔


父親はテレビをよく見る。

そして文句ばかり言う。

なかでも酷いのが人の容姿に対するものだ。

番組に特徴のある見た目の人間が登場すると、必ずと言っていいほどその容姿を誹謗する。

「お前はマスクを外すんじゃない」

「よくこんな顔で外を歩けるな」

こんなセリフが次から次へと飛び出す。

数年前からは「劣化」という言葉もよく使うようになった。


父親は差別発言が非常に多い。

たとえば職業差別。

「こんなところで働いているやつが……」

なんて言葉を悪びれる様子もなく口にする。

性差別や近隣国民に対する人種差別だって日常茶飯事だ。

(具体的内容はあまりに酷すぎてここには書けない)


父親はなにか"普通"と少しでも違うものを見ると、すぐにそれを揶揄したり誹謗したりする。

僕もその対象で、小さい頃はよくからかわれていた。

父親はいつも「上」からあらゆるものを見下ろしていた。


会社人間の幻想


以上が立派な肩書を持つ父親の裏の顔である。

社会的地位の高さと良識の有無はまったく関係ないことがよく分かるだろう。


高い地位にいる人間は往々にして、その地位が自分の優秀さによって与えられたものだと思い込む。

しかし実際には、ある種の図太さがその地位につながっているケースも少なくない。

あるいは「上」を目指して刻苦勉励しているうちに、人間として大事な物を忘れてしまったのかもしれない……

しごとのことばかりたいせつにしすぎる人は狂信におちいる危険がある、狂信とは本質的には一つか二つののぞましいことだけおぼえていて、ほかをわすれ、これら一つか二つをもとめることによって、ほかの種類のもたらす害をかんがえにいれないことである。

バートランド・ラッセル『ラッセル著作集6』片桐ユズル訳,みすず書房.

続く

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