内モードと外モードのギャップが大きいほど労働が苦痛になる
人間は多かれ少なかれ「家にいるときの自分」と「外にいるときの自分」とで振る舞いや精神状態に差がある。
前者を内モード、後者を外モードと名付けよう。
僕は内モードと外モードのギャップがかなり激しいタイプだ。
とくに子供の頃はそれが顕著だった。
少年時代の内モード・外モード
家の中ではいくらでも話すのに、外に出ると一切話せなくなる。
クラスメイトと会話した時間は小中学校合わせても5分に満たない。
ゴリラーマンか僕か、というぐらい何もしゃべらなかった。
一度も同じクラスになったことのない人に「無言の男シバサキ(笑)」と嘲笑されたこともある。
だが家では反対にうるさいとよく言われた。
それどころか家での僕は失言王で、幾度となく親の堪忍袋の緒を引きちぎってきた。(ちぎれやすい緒ではあったが)
ほかの人間にも大なり小なりモードの切り替えはあるだろうが、ここまでハッキリ切り替わる例は珍しいだろう。
高校以降の外モード
高校以降はそこそこ話せるようになったし、世の中の「ふつう」や「常識的振る舞い」をある程度模倣できるようになった。
ただしモードが切り替わる感覚はハッキリあり、外モードのときはやはりストレスが大きい。
あくまで模倣であり、内面が「ふつう」になったわけではないからだ。
10代後半から20代半ばまでは他人からの目が気になって仕方なかった。
コンビニに行くだけでも緊張し、いちいちワックスで髪型をセットしてオシャレな服装で家を出る。
1時間ぐらい行くかどうか迷った挙げ句、怖気づいて外に出ないことも珍しくない。
「ファミチキお願いします」のひとことすら心の中で何度かシミュレーションしていた。
美容院は店員があまり話しかけてこない個室の店を探し、わざわざ電車で1時間近くかけて通った。
最近は話しかけない美容院も増えてきたようだが、当時はどこの美容院も話しかけてくるのが普通だったのだ。
カットの巧拙よりもトークがあるか否かのほうが僕には重要だった。
(そもそもめったに誘われないが)飲み会や食事も100%断るようにしている。
気疲れするのが目に見えてるからだ。
実をいうと、人生で一度も酒を飲んだことがない。
音楽のライブは何度かひとりで行ってみたがまったく楽しめなかった。
一様に同じポーズを取る観客のノリが嫌なのだ。
周囲が全員立っているなか一人だけ最後まで座りきったこともあるが、どうも周りの目が気になって落ち着かない。
かといって周りに合わせて人差し指を掲げるポーズをやってみると、今度は心のざわめきが気になって仕方ない。
かといって自分が心からノレるオリジナルの変な踊りやエアギターをしてみると、これまた周囲がチラチラ見てくる。
結局どうやっても楽しめないのだ。
内モードと外モードの差が小さい人
一方で世の中には、外モードと内モードの差が小さい、あるいはない(ように見える)人もいる。
親や兄弟を見ていても、多少の変化こそあれ、外に出た途端まったく別人のようになることはない。
せいぜい声のトーンが高くなったり暴言が減ったりする程度だ。
これまでさまざまな職場を渡り歩いてきたが、中には
「この人には内モードが存在しないのではないか?」
と疑問に感じる人もいくらかいた。
彼らはまるで学生時代の延長であるかのごとく楽しそうに仕事をしている。
ハッキリ言ってうらやましい。
学生時代といえば、自己紹介で
「特技は誰とでもすぐに仲良くなれることです」
とアピールしていた男を思い出す。
僕は彼と仲良くなれる気がまったくしなかったが、あれだけポジティブならどこに行っても生きやすいだろうと思った。
仮に図のようなベル型曲線の中心に「ふつう」というものがあるすると、中心から離れている人ほどふつうに合わせるのに精神を消耗する。
中心近辺にいる人にとっては何でもないことに神経をすり減らす。
先の例でいえば、大多数がアーティストのパフォーマンスに注目している中でなぜか観客の仕草に注目し、ただひとり勝手に消耗しているのだ。
内モードと外モードの差が大きいほど労働は苦痛になる
世の中を見ていると、労働に対する認識が僕とは大きく異なるように感じる。
一部の人を除けば「労働=苦痛」という認識は共有できていると思うものの、どうもその「程度」が同じには思えないのだ。
ではこうした労働に対する認識の差はいったいどこから生まれるのか?
要因のひとつに内モードと外モードとのギャップの大きさがあるのではないだろうかと僕は考えている。