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終わり悪ければすべて悪し

なぜあんな退屈なものにハマっていたんだろう……

あの人のいったいどこが良かったんだろう……


かつて夢中になっていたのに今ではまったく興味がない。

そんなものが僕には腐るほどある。

以前ハマっていた某漫画はその典型だ。

現在では惰性で最新話を読んでいるが、昔の僕がなぜこの退屈な漫画に夢中になっていたのか、今となってはサッパリ分からない。


昔の自分は見る目がなかったんだなぁ……

かつての自分の感性が恥ずかしくさえ思えてくる。


終わり悪ければすべて悪し


ところが先日ふとしたきっかけでその漫画を1話から読み返してみたところ、ふたたび評価は一転した。


「こりゃ確かにハマるわ……」


かつての自分の感性は今とほとんど変わっていなかった。

序盤の話は今読んでも面白い。

中盤以降から明らかにクオリティが落ちていたのである。

つまり僕はかつて経験した序盤の面白さをすっかり忘れていたのだ。


これは長期連載のマンガにはよくある話だろう。

連載が長いほど、序盤に感じた印象は記憶の底に沈殿する。

作品全体の印象は直近に感じた印象に大きく左右されるのだ。

まさに終わり悪ければすべて悪しである。


同じ話は人に対しても当てはまる。

かつては良い印象を持っていた人物を、ある日を境に突然嫌いになってしまうというのはよく聞く話だ。(僕も数え切れないほど経験している)

嫌悪感はひとたび芽生えると坂を転げ落ちるように止まらなくなる。

悪い部分にばかり目がいくようになり、かつて感じていたはずの良かった部分に関する記憶は瞬く間に霧散してしまう。


なぜ終わり悪ければすべて悪しになるのか?


では我々はなぜ「終わり悪ければすべて悪し」に感じるのだろうか?

この理由を説明するには、ダニエル・カーネマンの提唱したピーク・エンドの法則が役立つかもしれない。

記憶に基づく評価は、ピーク時と終了時の苦痛の平均で決まる。
持続時間は、苦痛の総量の評価にはほとんど影響をおよぼさない。

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(下)』村井章子訳,早川書房.


ダニエル・カーネマンらが行った「冷水実験」では、まさにこの法則が当てはまる。


【実験】

  1. 14℃の冷水(かなり冷たいが我慢できる温度)に片手を60秒間ひたす

  2. 7分間の休憩を入れる

  3. 14℃の冷水に別の手を60秒間ひたしたあと、15℃の冷水に30秒間ひたす

  4. 7分間の休憩を入れる

  5. 次は[1]と[3]のどちらがいいか被験者に選択させる

※[1]と[3]の手順を逆にした実験も別のグループで行う

【結果】
 多くの被験者が[3]を選んだ。



[3]は[1]と同じ苦痛を与えたうえでさらに苦痛を追加しているのだから、当然[1]よりも苦痛であるように思える。

だが実際には多くの被験者が[3]を選択した。

つまり最後に覚えた感覚が、対象全体のイメージを改竄してしまうのだ。

経験する自己には発言権がない。だから記憶する自己はときにまちがいを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意思決定を行う唯一の存在である。よって、過去から学んだことは将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である。

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(下)』村井章子訳,早川書房.


経験と記憶にはたびたびズレが生じる。

だが我々が事後的にアクセスできるのは記憶だけであり、経験そのものにアクセスすることはできない。

だからこそ「終わり悪ければすべて悪し」という錯覚が生まれる。

人間の記憶なんていい加減なものだ。

続く

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