カエルの女神と夜の王 第三話
ラケルタの言うとおり庭園らしき場所に差しかかってからゆうに二十分は走り続けて、ようやく屋敷の尖頭アーチが見えてきました。まだ明るい時間のはずなのに屋根の上の空はどんよりと曇っていましたが、呑気なラナデアはこれから雨が降るのかしらと考えていました。邸宅の大きな窓にあかりはなく、今にも幽鬼が現れそうな雰囲気だったけれどシルキーのミセス・ラピスに育てられたラナデアは別段怖く思いませんでした。
「ねえラケルタさん。このお屋敷にボガートはいるかしら」
「ボガート? そんなふざけた奴はいやしないよ。それよりも、バーゲストに気をつけるんだね」
「バーゲスト? 聞いたことがないわ」
「奴はだいたい真っ黒な犬の姿をしているよ。霧の濃い夜に鎖を引き摺るような音がしたら、用心して部屋から出ないことだ」
「ふうん……」
元いた屋敷では毎晩ボガートに眠るのを邪魔されていたので、こちらでもそんなことがあっては大変だと思い尋ねたのですが、代わりに教えてもらったバーゲストというものの恐ろしさについては今ひとつ想像がつきませんでした。ラナデアにとって妖精や魔物たちは身近な存在で、自分をどこへも行けないように閉じ込めておく父や他の家族よりもずっと「善い」ものたちだったからです。
「ほら、背中から降りておくれ。腰が痛くなってしまったよ」
「ごめんなさい! ラケルタさん、ここまで乗せてくれてどうもありがとう」
立ち止まったラケルタの背中から急いで地面に降り立ったラナデアは、泥や木の葉がついてすっかり汚れてしまったドレスの裾を整えどうにか格好良く見えるようにしていました。それから顔を上げると灰色狼の姿は影も形もなく、代わりに地味な色合いのボンネット帽を被り足首までの長さがあるスカートを穿いた老婆が立っていました。やや腰を曲げた彼女の、落ちくぼんだ眼窩の奥にある瞳はしばらくの間狼と同じ赤色に輝いていたけれど、見ているうちにすっきりと澄んだグレーアイズへと変わってしまいました。
「あら、ラケルタさん、本当は人間だったのね」
「あたしを見て人間と言ったのはあんたが初めてだよ。この様子ではお嬢さん、なんにも教えてもらえなかったみたいだね」
相変わらずしわがれた声でそう言ったラケルタは、品定めするようにラナデアの頭のてっぺんからつま先までを見ました。それからクイと顎をしゃくるとついてくるように言い、スタスタと歩き始めました。置いて行かれないようにラナデアは小走りになりましたが、陽の光がないせいで屋敷は黒々とした巨大な影のように見え、今頃になってわずかな恐怖をおぼえたのでした。