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カエルの女神と夜の王 プロローグ

 ラナデアはいらない子でした。二人の姉と二つ年下の弟がいましたが、父母はラナデア以外の子どもたちを、いっとう弟を可愛がっていました。日曜に皆がダイニングルームでサンデーローストを食べている時も――いつもナース・メイド代わりであるシルキーのミセス・ラピスが見守っていましたが――自分の部屋でひとり、冷えて真ん中が凹んだヨークシャー・プディングを食べていました(ミセス・ラピスは何世紀も前からこの伯爵家に棲みついている亡霊のひとりで、真っ青なシルクのドレスを着ていることからこの名前で呼ばれていました)。
 ラナデアの暮らす北向きの部屋は狭い上にジメジメとしていて、夜になるとボガートが現れて掛け布を引っ剥がすのでしばしば眠れなくなりました。そんなときラナデアは汚れて曇った窓から月光に照らされた庭を見下ろして、ピクシーたちの作る妖精の輪を眺めて過ごすのでした。
 ラナデアの暮らしは幸せとは言えなかったけれど、生まれてきてからずっとそうだったので辛くは思いませんでした。ただ一つ不満だったのは、父のライブラリーに置いてある本が読めないことでした。パブリックスクールではラテン語の授業をしょっちゅう落第していたくせに高価な本を買い集めるのが好きな父の部屋には、思わず開いてみたくなるような煌びやかな装丁の本がたくさん並べてありました。一度ミセス・ラピスに頼んで部屋から出してもらい、自由に本を読ませてもらえるよう執務中の父へお願いに行きましたが、彼はラナデアを見るなり忌ま忌ましげな顔をして怒鳴りつけ、すぐに部屋へ戻るよう言いつけました。それ以来、自室のドアの外側には大きな南京錠が二つもかけられたのでした。
 そう、ラナデアはこの広大なカントリー・ハウスの一室に閉じ込められて暮らしていました。ラナデアが生まれた時、ようやくの嫡男誕生であると周囲は大いに喜びましたが、すぐに医師から「この赤ん坊は男ではない」と告げられました。しかし女だというわけでもなく、ラナデアはいわゆる「両性具有」の体を持っていました。それでも二歳までは男の子として育てられましたが、待望の男子である弟が誕生するとすぐに両親はラナデアを見限ったのでした。
 十二歳になった時、ラナデアは初めて父のライブラリーへ呼び出されました。憧れの部屋に足を踏み入れたラナデアは壁一面の本棚を目を輝かせて眺めましたが、父がラナデアを呼び出したのは本を読ませてあげるためではありませんでした。
「ラナデア、エイバン川の向こうの森のことは知っているか」
「暗い森のことでしょうか、お父さま」
「そうだ。その森の奥にある闇の館のことは?」
「いいえ」
「そこにはさる高貴なお方が住まわれていてな。今回、娘をひとり差し出すように言い付かった」
「あの、お父さま。このヴェーヌ村はお父さまのものではないのですか? 他に領主さまがいらっしゃったのですか」
「……そうか、お前にはもうカヴァネス(※家庭教師)をつけていなかったな……。まあ良い、詳しいことはノックス様に伺いなさい」
「森の領主さまはノックスさまとおっしゃるのですか?」
「ああそうだ。ラナデア、お前はノックス様のもとへ行くことになった。ミセス・ラピスに急いで支度を整えてもらうから、来週には闇の館へ嫁ぎなさい」
「でもお父さま、わたくしは女ではありません」
「うるさい、つべこべ言わずに黙って行きなさい」
「……はい、わかりましたお父さま……」
 こんな用件でも、父に長い会話をしてもらえたことのなかったラナデアは嬉しかったのですけれど……、ついぞ温かい言葉の一つもかけてもらえないまま屋敷を出て行くことになったのでした。

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